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黒いチューリップ 01

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 当時、男は鳶職の見習いとして地元の小さな会社で働いていた。高い所での作業がほとんどで、常に危険と背中合わせ。こき使われて辛いのに給料は少ない。いつ辞めてやろうかと思いながら出勤する毎日だった。面白くない。もっと金が稼げて楽な仕事を見つけて転職したい。
 中学二年の夏から付き合っていた女だけが唯一の心の拠り所だった。水泳部で一緒で、お互いが学校の代表選手だ。女は運動だけでなく頭も良かった。男が高校進学を諦めて働き出したのは、金を稼いで早く二人で所帯を持ちたいからだ。それが突然、「会社に好きな人ができたの」と言われて、あっさり捨てられる。相手は営業でトップの成績を叩き出す二十代後半の先輩だと言う。木更津駅前の分譲マンションに一人で住み、週末は新車で買った黒いセリカのコンバーチブルを乗り回しているらしい。マジかよ。そんな奴には逆立ちしたって勝てるわけがないぜ。「お前の好きにしてくれ」と言って立ち去るしかなかった。
 本気で愛していただけに酷く落ち込んだ。派手に遊んで気を紛らわしたいところだが、金がないからそれも出来ない。賭け事に手を出して一攫千金を夢見たが僅かな有り金を失ってしまう。友人から借金して負けた額を取り戻そうとしたが損失だけが増えた。何をしても上手くいかない。八方塞がり。不満は募り、世の中に嫌気がさして自暴自棄に陥る寸前だ。何の希望もなかった。このままで人生が終わるんだろうか。それなら何か大きな悪事を働いて社会に復讐したいという気持ちが強くなっていく。
 それしか自分の存在を示す方法がない。このままだと社会の小さな歯車として消耗させられて、無意味に一生が終わってしまう。だったら、そうなる前に世の中に対して衝撃を与えたい。
 八月の暑い日だった、男は親方に「久しぶりに実入りのいい仕事が見つかったんだ」と言われて東京の高円寺まで連れていかれた。うちの会社が扱う現場にしては遠すぎると、みんなが思う。雇い主の笑顔と社員の待遇は大抵が反比例だ。きっと大変な仕事に違いないと覚悟していた。が、古い一軒家の解体作業で別に難しい作業ではなかった。
 東京にしては家の土地が広く、道路に面した間口もそこそこあるが住居までの奥行きが長かった。敷地の回りには高い木々が立っていて、近所とは隔離された別の世界を作り上げていた。晴れていても、その場所だけは薄暗い。どこかに巣があるのだろうか、何羽もカラスがいて、その泣き声がうるさい。どことなく異様な雰囲気だった。
 いつもと違って同僚たちは無言で仕事を始めた。馬鹿な冗談、卑猥な言葉が全く飛び交わない。動きも鈍くて朝から疲労困憊しているみたいに見えた。すると、すぐに一人が何でもない作業で手を切った。続いて、また一人が急に気分が悪くなって座り込む。頻繁にカラスが奇妙な泣き声を立てた。昼までには残りの連中ほとんどが気味が悪い家だと言い出して仕事を拒んだ。親方は手当てを増やして社員を働かせるしかなかった。
 作業中に同僚たちが話している内容を耳にすると、この古い家の解体はどこの会社にも敬遠されて、とうとう千葉県の君津に住む親方に仕事の話が回ってきたらしかった。仕事を断られる度に、家を解体する提示額が上がっていったのだ。
 男は見習いで仕事を拒めるような立場になかった。不満を口にすれば殴られるだけで手当てなんか増えない。午後の休憩時も社員全員の飲み物を近くのスーパーまで買いに行くという雑役が待っていた。
 二十本近い缶ジュースを入れたビニール袋を抱えて現場まで戻ってきた時だ、敷地内の片隅で高い木と木の間に隠れるように中学生ぐらいの少年が立っていることに男は気づく。何だ、こいつ。手で左の耳を押さえているぜ。こんな所で何をしているんだ。「どうした?」声を掛けたが返事はなかった。よく見ると耳を押さえた手に血が付いていた。「ちょっと、待ってろ」
 男は同僚に缶ジュースを入れたビニール袋を渡すと、急いで少年のところへ戻った。「すぐそこにガキがいて、怪我をしているみたいなんだ」と言ったのに不思議なことに誰も関心を示さなかった。立ち上がって各自、自分の飲み物を取ると静かに元いた場所で休む。口すら利かなかった。何だよ、冷てえ連中だなあ。改めて、この会社が嫌になった。
 「お前、怪我しているんじゃないのか?」
 少年は同じ場所でしゃがんでいた。男は横に腰を下ろして傷の具合を見てやろうとした。ところが、それを待ち構えていたように少年が素早い動きで身を寄せ、男の肩に手を回してきた。とっさに逃げようとしたが体勢が悪かった。その場に、少年とは思えない強い力で押さえらてしまう。抵抗できなかった。恐怖で体が固まる。何をされるのかと恐る恐る少年の顔を窺うと、その目が一瞬だが赤く光った。こいつは人間じゃない。蛇に睨まれたカエルのように動けない。ダメだ、殺される。
 少年の口が開く。噛み付かれると思って反射的に顔を叛けた。ところが、そうじゃなかった。話し始めた。驚いたことに、しゃがれ声だった。まるで老人のような……。
 話し続けた。男は弱々しく頷くしかできない。しゃがれ声が発する言葉を黙って聞いた。少年なんかじゃない、かなり歳を取った老人だ。そう確信した。
 この場所に男が来るのを老人は何年も待っていたと言う。なぜ、どうして? 理解できない。意外なことに協力を求めていた。こ、このオレに? な、何を?
 何か恐ろしいモノに襲われたという恐怖感は薄れていく。だが言われたことには逆らえそうにない思いは強かった。最後は、外見こそ少年だが中身は老人である男への同意を示すために、彼の手に付着した血を舐めさせられた。
 うっ。
 強烈な痺れが舌先から全身に走った。ただの血じゃない。毒じゃないのか? 騙されたらしい。目の前が真っ暗になって、意識が遠のいて行く。なんとか気を失わないように必死に堪えた。
 しばらくすると遠くから声がした。「おい、大丈夫か?」次第に、その声が近づいてくる。「しっかりしろ」「おい!」「起きろ」激しく体を揺さぶられて男は目を開けた。地面に寝ていた。そばにいたのは会社の同僚たちだ。みんなが心配そうに自分を見ていた。どういうことなんだ? 首を回して少年の姿をした老人を捜したが、どこにもいなかった。「あの老人--いや、違う。あの少年はどこ?」男は仲間に尋ねた。
 「お前、大丈夫か?」尋ねたことには誰も答えてくれず、逆に親方が訊いてくる。その声には本気で心配している響きがあった。
「……は、はい」真剣な表情に圧倒されて、そう答えた。
「意識が戻って良かったな」
「……」良くも悪くもない。ずっと意識はあった。何も変わっちゃいない。だが立ち上がろうとすると体に鈍い痛みが走った。えっ、何でだ?
「おい、無理するな」、「まだ寝ていろ」、「動くんじゃない」と病人に対して言うような言葉を次々に浴びる。
「……」連中の言う通りだ。痛みで動けそうになかった。老人の血を舐めただけで、こんな事になるのか?
「どこが痛い?」
「体が……、こ、腰のあたりが……」
「頭はどうだ、目眩はするか?」
作品名:黒いチューリップ 01 作家名:城山晴彦