時間差の文明
二人の生い立ち
千鶴は、幼馴染の浩平と、一か月ぶりに待ち合わせをしていた。その日は、久しぶりに仕事が忙しい浩平が、時間調整をしてくれて、浩平の方から誘いの電話を入れてくれたのだった。
広告代理店で事務をしている千鶴は、中小企業の営業をしている浩平から見れば、少し見劣りするかも知れないが、千鶴にはそんなことは関係ないと思っていた。浩平もそんなことは気にしてないだろうと千鶴は思っていたが、実際には、少しコンプレックスを感じていたようだ。
千鶴の前ではさすがに浩平も、そんな気持ちを表に出さないようにしていた。誘いを掛けるのも、いつも浩平の方からで、二人が一緒にいる時は、そんなコンプレックスを浩平は表に出さないようにしていた。
千鶴は、すぐに人のことを信用するタイプではないが、浩平のことは、見た目をそのまま信じている。幼馴染というのは、往々にしてそうなのかも知れないが、子供の頃から知っているだけに、疑うことを知らないというのも当然のことなのかも知れない。
浩平も、千鶴にコンプレックスを抱いていたが、それは幼馴染ということで抱いているコンプレックスだ。ただ、それは他の人が相手ではここまで感じないだろうと思うことではあるが、
――千鶴は昔と変わることのない千鶴なんだ――
と、昔のイメージそのままに変わっているはずはないと、自分に言い聞かせていたのである。
千鶴の方にしても同じだった。
浩平とはずっと一緒にいたという意識が強い。中学時代までは、確かにいつもそばにいたが、高校は別々に進学し、そのあたりから、目に見えて二人の距離が広がってきたのだが、高校に進学してからでも、二人は定期的に会っていた。それはデートをしていたというわけではなく、近況を話し合ったり、悩みなどないかなど、相手を気遣う気持ちを持っているからだった。
相手を気遣うというのは、幼馴染としては当然のことだと思っていたのは、二人とも同じだったが、どちらの方が強かったかというと、浩平の方が強かっただろう。誘いを掛けるのはいつも浩平の方で、ただ、気を遣うのはいつも千鶴の方だった。
相手を気遣うというのと、気を遣っているというのとでは、まったく違うものだった。
相手を気遣うのは、男として、まず最初に千鶴のことを考えてのことだった。千鶴が気を遣うのは、浩平に対して、まずは自分のことを考えて、そして、自分の態度が浩平に対して、失礼になっていないかということを考えていた。
ストレスをどちらの方が感じやすいかと言えば、千鶴の方ではないだろうか。
いつも千鶴のことを最初に考えるようにしている浩平だったが、そのことを、意外と気付いていないものだ。千鶴ですら、感じていないことである。千鶴は無意識に感じているストレスは、自分の中に籠めようとしている。それを表から見ていて、しかも、包み込むような感情でいる浩平に、内に籠る感覚を見抜くことは困難だった。
そう、浩平は千鶴に対して気遣っているのは、
――包み込んであげたい――
という気持ちからであった。
それは、抱擁の感覚だった。抱きしめたいという気持ちの表れでもある。しかし、男の浩平が抱擁の気持ちを表すと、それはそのまま身体の関係に結びついてしまいそうな気がして、どうしても気が引けるのだった。
幼馴染というのは、同じ男女であっても、恋人同士というのとは、また違った感覚がある。
恋人同士というのは、どうしても他人という感覚が強いので、気を遣うところから入る。それは手探りで、不安が付きまとっているものであるが、幼馴染というのは、最初から気心が知れている。ひょっとすると、相手を異性として意識していないくらいなのかも知れない。
そう思うと、幼馴染は気が楽なものである。
ただ、浩平と千鶴は、同じ幼馴染でも、お互いに異性として意識している。それがいつ頃のことで、どちらの方が意識するのが早かったのかは、微妙なところだったのではないだろうか。
気持ちの強さもお互いに微妙ではあるが、浩平が定期的に、千鶴と会うようにしている理由の一つとしては、その気持ちを確かめたいという思いが強いことに違いはない。千鶴も浩平のそんな気持ちを知らないのかも知れないが、会えることを素直に喜んでいる。お互いにその日はまるで恋人を会う約束をしているかのように、ドキドキしながら、再会を待ち望んでいるのだった。
前の日から、千鶴はソワソワし始める。特に仕事が終わってからは、浩平に会うまでは自分のプライベートな時間である。仕事のように、誰かに指示されたり、責任を感じながら時間を過ごさなくてもいいから、気が楽であった。
会社で、それほど重要な仕事を任されているわけではないが、責任という言葉が頭につくと、どうしても、神経質になってしまうのが、千鶴の性格だった。
「もっと気楽にやればいいのに」
と、同僚が見て思うくらい、緊張しないでいいところで緊張してしまう。それは千鶴の短所なのだろうが、そんなところを浩平は気に入っていた。
「何事も一生懸命にやるところが、千鶴のいいところだ。俺なんか営業しているといっても、結構いい加減なもんだよ」
と、言っておどけて見せる浩平は、その言葉に偽りはなかった。
「営業社員は、ある程度適当なところがないと、やってられないところがあるからな」
と思っていた。
千鶴は、浩平のその言葉を全面的に、謙遜だと思っている。
――営業社員は、皆緊張の連続で、適当な性格の人では務まらない――
と思っていた。
この違いは、
――営業をした人でなければ分からない――
というのが、本音である。
そう考えると、説得力は浩平の方にあるだろう。精神的に余裕を持っているのは、浩平の方なのかも知れない。
それでも、コンプレックスだけはしょうがないようで、
――千鶴に会社でいい人が現れた時、自分と比較されたらどうしよう?
と、真剣に考えてもいた。
ただ、今、そんなことを考えていても仕方がない。千鶴との時間を大切にしてさえいれば、千鶴が自分以外の男性に惹かれるなどということはないと思うようにしていた。
千鶴と待ち合わせをする前に、なるべく平常心でいたいと思っているのもそのせいである。
千鶴と浩平は、幼稚園の頃から一緒だった。
浩平の後ろをいつも千鶴が追いかけている姿をよく見かけた。
親同士が仲が良かったこともあって、休みの日に遊園地やデパートに出かける時など、親に連れられて、一緒に出掛けていたものだった。
あれは、小学校三年生の頃だっただろうか。浩平が迷子になったことがあった。
「しっかりしていると思っていた浩平ちゃんの方が迷子になるなんて」
と、浩平が見つかった後に、千鶴の母親が、そう呟いた。
いつも浩平の後ろをついて歩いていた千鶴は、子供心に、
――私が一緒にいてあげなかったから、いなくなったんだわ――
と思った。
ちょうどその時、千鶴はトイレに行きたくなり、
「私、おトイレ言ってくる」
と、小声で言ったのだ。
女の子なので、恥かしいという気持ちがあったからなのか、蚊の鳴くような小さい声で呟いた。普段から声が大きい方ではない千鶴なので、