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短編集46(過去作品)

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イエローカード



                 イエローカード


「ピーッ」
 ホイッスルを鳴らしながら、主審が右手を高々と上げながら走ってくる。黒いユニフォームの胸元に手を差し込み、しばしまさぐっていたが、さっと高く上げられた手には、小さな黄色い紙が握られていた。
「あっ、イエローカードだ」
 サッカー音痴の達男だったが、イエローカードの存在くらいは知っていた。会社でもミスをしたりすると、サッカー好きの同僚から、
「ピーッ、イエローカード」
 と言って、持ってもいないカードをさも持っているかのように高々と右手を差し上げていた。悪気はないのだろうが、あまり気持ちのいいものではない。
 十数年前に日本でもプロリーグができ、最初の二、三年は賑わったものだが、今ではほとんど騒ぐこともない。四年に一度開かれるワールドカップでは、さすがに日本中が熱狂するが、所詮国内のリーグにはあまり関心のない人が多いようだ。
 達男も最初はサッカーが好きな人との話しができる程度にリーグのことは知っていた。だが、テレビで見るところまでは行かず、ルールもほとんど知らないと言ってもいい。ましてや競技場に見に行くなど一度もなく、
――どうして、これがプラチナチケットとまで言われるんだ――
 と思ったほどだ。
 プロリーグ元年などはチケット争奪のあおりで、人が死ぬ事件すら起こっている。かなりの社会問題を引き起こしたことは、今でも記憶に新しい。
 サッカーに興味を持たなかった理由の一つとして、まず同僚の態度が上げられる。ミスをした時など落ち込んでしまうのに、そんなこちらの気持ちを知ってか知らずか、すぐにサッカーを引き合いに出しておどけて見せる。実に不愉快ではないか。
「ピーッ、イエローカード」
 などと言われると、
――ちぇっ、何がイエローカードだ。こっちだって一生懸命にやってるんだぞ。人の気も知らないでいい気なものだ――
 と反発心しか浮かばない。実生活に趣味を持ち込まないでほしいものだ。
 それが一番の理由であったが、元々達男は野球好きであった。
 小学生の頃から地元のプロ野球チームを応援していた。弱小チームで優勝争いなどおこがましいほどのチームで、
「リーグのお荷物」
 とまで言われていた。
 経営不振からか、何度かスポンサーが変わり、そのたびにチーム名も変わってきた。変わらないのは、選手と球場だけで、地元ファンはどれほどチーム名が変わろうとも、
「俺たちのチームを応援するんだ」
 とばかりに熱狂的なファンは少なくなかった。
 達男はそんなチームを見ていたせいもあってか、判官びいきであった。
――弱いチームが強くて人気のあるチームをやっつける――
 そんなシチュエーションにたまらない興奮を感じていた。
 歴代の監督の中で一人ファンのそんな気持ちを前面に出す人がいた。まさしく熱血漢のある人で、人気チームにエース級のピッチャーをぶつけて、選手もしゃかりきになってプレーをする。そのおかげでいつも下位にいるのに、人気チームとの対戦成績だけは、いつも互角かそれ以上だった。
「それならもっと上に行けるんじゃないか」
 という人も野球音痴の意見も聞こえてきそうだが、如何せん、人気チームに最大限の力を発揮するので、他のチームには散々だった。特に人気チームの前の対戦相手には、戦力を温存するため、弱いチームのさらに主力抜きで勝てるわけもない。また、人気チームの次のカードでは、すでに選手は精魂尽き果てていて、これでは勝てるはずもない。
 相手チームも、下位のチームに取りこぼしたくないという思いから手を抜くことはしない。勝敗はやる前から決まっていたと言っても過言ではないだろう。
「どこに勝っても一勝に変わりはないじゃないか」
 と言われるが、ファンもチームもそれでいいというのだから、実に地域に密着したチームと言えるのではないか。
 少年時代からファンクラブに入り、よく見に行っていた。ちょうど住んでいるところから球場まではそれほど遠くなく、夜試合をしている時の鐘や太鼓の音が、風に乗って聞こえるくらいであった。
 内野席には優先的に入れる。割引もかなり効くので、ちょっとしたおこづかいでも野球を見に行ける。
 野球を見に行くのであれば親も、
「気をつけて行ってらっしゃい」
 という程度で、それほど心配もしていない。お弁当を作って持たせてくれるくらいだ。
 内野席には応援団がいるのだが、いくら熱狂的なファンがいるとは言え、それが集客にすぐに結びつくとは限らない。目の敵にしている人気チームが相手の時は客が多いが、それ以外は閑古鳥が鳴いている。それもそのはず、
「どうせ勝てやしないんだ」
 と思われて当然、歴然と戦力の違いを見せ付けられるのがオチだった。
 だが、野球場には何か期待できるものがあった。ボールがミットに吸い込まれる音や、バットに当たる乾いた音を聞いていると、ワクワクしたものだった。
 弱いだけに、負けても仕方がないという思いが強かったのも安心して見ていられる要因の一つだった。強ければ、負けた時の悔しさはひとしおなのだろうが、負けを覚悟で行って勝った時は喜びがひとしおだった。いわゆるファン心理の奥底に存在しているものだと感じていた。
 憎き人気チームが相手の時に見に行くことはない。自分が応援しなくとも、他の人が応援してくれる。多いだけにゆっくりと試合を見ることもできないし、何となく落ち着かない。
 これこそ不思議な心理なのだが、
――このチームは俺が支えているんだ――
 というような妄想に駆られたことすらあった。やはり、まだ子供だったという証拠である。
 そんな達男は、高校を卒業するまで、よく球場に足を運んだものだ。
 達男がちょうど高校を卒業する年にプロサッカーリーグが開設された。プロ野球とは一線を画していたが、新しいものができたということでファンは熱狂的になった。理由の一つにサッカーが全世界共通のスポーツだという触れ込みがあったのも事実である。
 確かに野球はアメリカを発祥の土地として、中南米、アジアの一部で盛んなだけで、後はあくまでも発展途上の国ばかりである。サッカーの場合はほとんど全世界の国で親しまれ、プロリーグを持った国も少なくない。日本にもやっとできたというものだ。
「サッカーって、ルールも難しいし、なかなか点が入らないところがイライラするよね」
 テレビ中継なども、よほどの大会でもない限りしていなかったので、そんな印象を持つ人が多くても仕方がないだろう。
「そんなことはないさ、ルールという意味でいけば、野球の方がよほどややこしいさ。点数が入りにくいと言っても、動きの中での結果が点数になるんだ。ある意味野球よりも分かりやすいかも知れないぞ」
 と言っていたのが、会社で比較的仲のいい里村だった。
 里村は野球にも造詣が深く、よく野球の話をしたりしていた。だが、サッカーも昔から好きだったようで、プロサッカーリーグができてからのにわかファンではなく、スポーツとしてのサッカーが好きだったようだ。
 プロリーグができてから数年のあれだけ熱気に満ちていた人気が、あっという間に下火になったのは、達男のみならず不思議に思っている人は多いだろう。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次