掌のぬくもり
「小児病棟……」
「病気や怪我をした子供たちが入院している建物です」
その時、大沢の顔にあいまいでない、心からの微笑が浮かんだ。
「鮎子先生! もう歩けるようになったよ!」
「鮎子先生! 僕いつ頃お家に帰れるの?」
「鮎子先生! あたし早く学校へ行きたい!」
鮎子は小児病棟でも人気者だ、難しい顔をした男性のベテラン医師よりもよほど親しみやすいのだろう。
「良かったわね、きっとまた走れるようになるわ」
「う~ん、もうすぐだと思うわ、小児科の先生とお話ししておくわね」
「今は焦っちゃダメ、きっとまた学校に行けるようになるから、今は怪我を治すことを第一に考えようね」
鮎子も一人一人に真摯に向き合って答えて回る、大沢の背中を見て覚えた子供との接し方、今鮎子はそれを実践しているのだ。
個室、二人部屋と回って、最後は六人の大部屋、ここの子供たちはもう退院間際の子が多い、それだけににぎやかに鮎子を迎えてくれる、あっという間に子供たちに取り囲まれるが、その中の一人の女の子が鮎子に抱き着いた。
「先生、病気を治してくれてありがとう、明日退院なの」
「そう、良かったわねぇ」
「でも、もう先生に会えなくなっちゃうのは寂しいなぁ」
「ふふふ、ここは病院よ、病院なんて縁がなければその方がいいわ」
「でも……」
「ほら、泣かないの」
鮎子がしゃがみこんで子供と話しているのを見て、大沢も同じようにしゃがみこんだ。
子供と話す時に大沢がいつも取っていた姿勢だ。
女の子は見知らぬ老人の行動にちょっと驚いたが、本能的に優しく信頼できる人だと見抜いたのだろう、大沢に抱き着き、大沢もしっかりと抱き返した。
その時だ……。
大沢の顔に大きな変化が現れた、それまでは様々なことが認知できないことに自信を失い、自分が何者だったのかさえ思い出せないことを歯がゆく思い、心がそこにないように呆けた様な表情だったのだが……。
「こんなこと……以前にも何度もあったような気がする……」
「え? ええ、ええ、院長先生はたくさんの子供たちをそうやって抱きしめて育ててくれていたんです」
「別れ……」
「いいえ、別れじゃないんです、それは旅立ち、巣立ちです、先生はたくさんの子供たちをそうやって送り出して……」
「児童養護施設……私は……」
「はい! 院長先生でした、私もそうやって抱きしめてもらいました、そして先生の元から巣立ったんです」
「君は……鮎子……ちゃんだね?」
「はい! そうです! 鮎子です!」
鮎子は大沢に抱き着き、大沢は鮎子をしっかりと抱き返し……共に涙を流した……。
いつの間にか集まってきた子供たちが手をつないで、そんな二人を包み込むように輪を作っていた……。
「先生、退院おめでとうございます、よく頑張られました」
「先生はやめてくれ、今は僕のほうから鮎子先生と呼ばなくちゃならない立場だよ」
「いいえ、先生は私の中でいつまでも院長先生です、優しくて心から信頼できる……お父さんと呼びたいくらいの……」
「鮎子先生も心から信頼できるお医者さんだよ」
大沢が退院する日が来た。
まだ完全に何もかも思い出し、認識できるようになったわけではない。
しかしきっかけは掴めた、記憶を呼び戻し、様々なことを認識する術も学んだ、大沢はゆっくりとでも元通りの院長先生に戻って行けるだろう。
「家に戻れるのはうれしいが、鮎子ちゃんと会えなくなるのは寂しいな」
「今度は私が見送る番ですね、退院は病気からの卒業ですよ」
「そうだね」
「それに、院長先生の主治医は私なんですから、病院と縁を切ってもらっては困ります、また倒れたりしないためにも」
「ははは、実な病院というのはあまり好きではないんだ、でも『老いては子に従え』とも言うからね、ご忠告に従うことにするよ」
「ぜひそうなさって下さい……では、お大事に」
「ありがとう、何度言っても足りないが、ありがとう……」
病室を辞す時、本当は抱き着きたかった……さすがにそれははばかられたが……。
しかし、鮎子の中で、施設で、大沢の元で過ごした日々が蘇る……閉じてしまいそうな心を大きな手で温めてくれたこと、周囲と折り合いがつけられず尖っていた気持ちを掌で擦るようにして丸くしてくれたこと、医師を目指すと決めた自分を励ましてくれたこと、夜遅くまで明かりが消えない自分の部屋に温かい夜食を運んできてくれたこと……温かい記憶ばかりだ。
自分もメスをふるって病巣を切るだけでなく、暖かい掌で患者の傷を癒すような医師でありたい、そうあるべきだ。
この数週間、大沢と過ごした日々がそれを教えてくれたような気がする。
(院長先生、ありがとうございます、やっぱり先生は今でも私の道しるべなんですね……)
鮎子はそっと目頭を押さえると次の病室に向かった、自分を待っていてくれる人達がそこにいるから……。
(終)