堕とされしものたち 機械仕掛けの神
鴉はファリスの上から素早く退いて地面に屈み、自分の首を力強く握っている。指の間から幾本もの紅い筋が流れ出ている。
「治まれ!」
大声を出した後、鴉は自分の首から手を離し、荒い呼吸を何度もした。どうにか発作は治まった。だが、まだ聖水[エイース]が足りないことには変わりなかった。
今にも倒れそうな足つきで立ち上がった鴉はゆっくりと歩きはじめた。その足取りはおぼつかず、まっすぐ歩けていなかった。
鴉の腕が誰かの肩に勝手に回された。この場にいるのはファリスしかいなかった。
「心配で見てられないよ」
「私に近づくな」
「ヤダ。だって、別に行くとこないし、いつ死んでもいいよ、もう……」
この場でファリスのことを突き放さなければならなかった。だが、鴉はしなかった。
意識の朦朧とする鴉はファリスの肩を借りながら歩いた。それが何故か心地よかった。
二人はスラムを出ることにした。行き先はない――。
短いスカートから覗く美脚が艶かしく見るものを誘う。
彼女は地上[ノース]では葉月千歳と名乗っていた。
ソファーに座る千歳は短いスカートにスーツのジャケットを素肌の上から着ており、豊満な胸の谷間には大きなダイヤのネックレスが輝いている。
紅い液体の満たされたグラスを千歳は相手に差し出した。差し出された相手は妖艶たる美貌の持ち主で、昨晩この巨大都市エデンに堕ちて来た。その美貌の持ち主の名はゾルテ――いつか鴉の前に現れた男だった。
キャンサー社の一室で二人は杯を交わしていた。
グラスを受け取ったゾルテは紅い液体を口の中へと流し込んだ。
「懐かしい味だ。楽園[アクエ]では一生呑めぬ味だな」
「この街ならいくらでも上質な聖水[エイース]が手に入るわよ。特にわたしが好みなのは処女の聖水[エイース]よ」
「聖水[エイース]は聖水[エイース]だろう。味に大差などあるものか?」
「楽園[アクエ]に住む天人[ソエル]たちは本物の聖水[エイース]の味も忘れてしまったのね、可愛そうに」
濡れた唇で妖しく微笑んだ千歳の口の中に紅い液体が流れ込んでいく。
千歳はわざと液体を口から零すように飲み、紅い液体が胸の谷間にポタポタと滴り落ちる。
グラスに入った聖水[エイース]を飲み干した千歳を見てゾルテは嘲笑った。
「地上[ノース]は堕落している」
「だってわたしは堕天者[ラエル]よ。それにここはそういう者たちのために造られた鳥かごだもの」
「なるほど、そのとおりだ。だからこそ私の堕天者[ラエル]となったのだ。だが、私は堕されたのではない、自らの意思でこの地上[ノース]に赴いた」
「地上[ノース]を支配するため、楽園[アクエ]でのさばる天人[ソエル]を滅ぼすため、それはつまり神への反逆」
突然、窓の外から眩い光が差し込んで来た。差し込んできたなどと言う生易しいものではなかった。窓の外から光が襲って来たのだ。
千歳は何事かと壁一面に広がった窓から地上を見下ろした。
最上階である三二階――高さは約一一二メートルの一室から見渡す巨大都市エデン。高層ビルの高さは年々高さを増していき、神をも恐れぬバベルの塔を思わせる。
人々は天まで届く巨塔を建設しようとしたのだが、神はそれを見て人間の行為は傲慢であるとして、建設が進まぬようにひとつだった言語を多くに分けて人間たちを混乱させ言葉を通じないようにした。高層ビルの建設は神への反逆ともとれるかもしれない。
千歳は嬉しそうに笑った。
「どの位のノエルが死んだのかしらね?」
「あそこは確か……」
千歳の横に立ったゾルテは巨大都市エデンにできたクレーターを見ていた。その場所は都市の東に位置するスラム三番街の方角だった。
電話が鳴った。千歳はすぐに電話に出た。
千歳のデスクに取り付けてあるモニターに女性秘書の顔を映し出される。
《スラム三番街で謎の爆発が起こり、ユニコーン社のハイデガー社長と連絡が取れなくなりました。詳しい情報が入り次第、折り返し連絡いたします》
「いいわ、連絡しなくて。それよりもクレーターの埋め立てをして、今日から歓楽街の建設をはじめて頂戴」
《承知いたしました。それでは失礼いたします》
モニターの電源が自動的に切れた。
ゾルテはまだ窓の外を眺めている。――そして、呟く。
「あの場所に鴉がいたのを知っているか?」
「あら、そうなの。どおりでハイデガーが派手にやったと思ったわ」
「ハイデガーが生きていると思うか?」
「さあ、わたしには関係ないことよ」
千歳はゾルテの腰に手を回すが、ゾルテは軽くそれを払い、天のその遥か先にある何処かを見つめた。
「なるほど、この都市を影で支配するドゥ・ラエルたちに仲間意識はないか」
「大きな動きをするとヴァーツに目を付けられるわ。奴らはノエルが多少死のうが構わないみたいだけど、堕天者[ラエル]同士の衝突や反逆には厳しく目を光らせているわユニコーン社に仕事を委託したのはこのわたしだから、これ以上は首を突っ込みたくないわね」
あの爆発からしてハイデガーと鴉が衝突したのは間違いないだろう。しかも、あの規模だ。巨大都市エデンを統括する政府組織ヴァーツが動くことは間違いなかった。
ゾルテは不適に笑い部屋を出て行こうとした。
「ヴァーツの奴らに挨拶に行って来る」
「待ちなさい、勝手な真似はしないで頂戴! これからの計画を全て台無しにするつもり!?」
「私が堕天して来たことはすでに知れていることだ。ならば、奴らを少し煽ってやろうと思ってな」
「だから、勝手な真似はしないで!」
ゾルテは詰め寄って来た千歳の腰を抱き寄せて口を塞いだ。
重なり合う唇と唇を離し、何も言えなくなった千歳をこの場に残してゾルテは去って行った。
残された千歳は髪の毛をかき上げてため息をついた。そして、すぐに自分のデスクに座りどこかに連絡をする。だが、モニターには映像は映し出されず、音声のみの連絡だ。
「わたしだけど」
《リリスか、何用だ?》
若々しい男の声がスピーカーの奥から響いた。
「ゾルテが政府に喧嘩しに行っちゃったわ。だから、M計画を早急に進めないと政府にバレちゃうわよ」
スピーカーの奥から失笑が微かに聞こえ、しばらく経ってから再びスピーカーの奥から声が聞こえてきた。
《強大な力を持っていようとも、所詮は長い時を楽園[アクエ]で過ごした天人[ソエル]だな。この地上[ノース]が牢獄であることを理解していないらしい》
「全くよ、長い時を費やしたM計画が台無しにする気かしら」
《それがわかっているのならば、早くルシエを止めに行け》
ルシエとは楽園[アクエ]にいた頃のゾルテの名である。そして、リリスも同じ――それが千歳の名である。
千歳は返事をしなかった。
《行けと行ったのが聞こえなかったのか?》
「そういうのはわたしの仕事じゃないわよ」
《わかった、ルシエについては泳がしておこう。その間に君は引き続き〈Mの巫女〉を探せ》
「了解。じゃ、またね」
千歳は電話を切り、深いため息をついた。あの男と話しをすると疲れる。だが、全てはM計画遂行のため。
「支配者はひとりでいいのよ……」
作品名:堕とされしものたち 機械仕掛けの神 作家名:秋月あきら(秋月瑛)