佐野槌 -張りの半籬交-
一、男
こんな朝早くっから、お前さんも物好きだね。もう十年も前になくなった見世を調べてどうするんだね。寄席で聴いた噺に『佐野槌』が出てきったって? そりゃ、『備前徳利』か『木乃伊取り』だろ。違うのかい? じゃあ『文七元結』だね。そうだろ、なっ。あたしも情け深い亭主として出てきたろ。えっ、女将が出てきたって? おかしいな……、本当に佐野槌だったのかい、『角海老』の間違いだろ。こないだ三遊亭圓朝が新聞に載せたやつだよ。角海老の女将で載ってるのをあたしも読んだよ。えっ? 寄席では佐野槌の女将だったって.。あたしが知ってる二つの文七元結が混ざったような噺だね。誰だいそんな滅茶苦茶な噺をしたのは。橘家圓喬? 知らないな。若い人かい。圓朝の弟子だって? そんな半ちくな噺をしていると、破門されちまうんじゃないのか。なに? それが素晴らしく良い噺だったって。それで、佐野槌に興味を持ったのかい。でもなぁ、お前さんが興味を持ったのは、佐野槌の亭主じゃなくて、女将が出てきたからだろ。だったらあたしよりも相応しい人から話を聞いたらどうなんだい。呼んできてやろうか? 今はあたしの話を先に聞きたいって。じゃあ、あたしの話がすんだら、呼んでやるよ。まあ、年寄の茶飲み話だが……、何から話そうか
吉原の歴史は元から数えると今年で二百七十年、新吉原になってからでも二百三十年を超えているんだが、佐野槌の歴史はその中でたったの四十五年だよ。知らなかったろ? 見世の生涯は短かったんだよ。それでもお前さんよりは年かさだね。幾つだい? 二十九か、お若いね。その若さで吉原に入れ込んだら、大変だろう。今の吉原は病気が怖いからね。えっ医者だって。そいつは失礼した。態が立派だから軍人さんかと思ったよ
どこまでだったかな。ああ、そうだったね、見世の生涯は短かったって話だったな。生涯は短かったんだけど、華やかだったんだよ。吉原細見は見たことあるかい? 吉原の案内書だよ。今の細見はいい加減になっちまったが、御維新まではきちんとしてたんだよ。その細見に佐野槌が最初に出たのが、天保の甲午だから五年だね。佐野槌という見世が出来たのがその年なんだよ。細見には最初、半籬で出て次の年からは半籬交で出てたよ。えっ、違いがわからないのかい。今の人には分からないのも、無理はないな。今じゃ大見世って呼び方じゃなくて上等貸座敷だからね。なんとも、色気のない呼び方だよね。それもこれも、あんな事件があった為に、どんどん昔の吉原がなくなってしまったんだよ。
話を元に戻してくれって? そうだね、どうも年寄りの話はあちこち脇道に逸れていけないね。年寄りだから残された時間は少ないけど、一日の時間は長いんだよ。
佐野槌が生まれたときに話を戻すとしようかね。なんで佐野槌がいきなり半籬で細見に出たかっていうと、ちゃんと理由があるんだよ。たしかに天保の甲午に佐野槌は出来たんだが、それより前に……。何? 太陽暦で言って欲しいって。そんなもんはあたしには分からないよ。逆に教えて貰いたいよ。……、そうなのかい、天保の甲午ってのは1834年なのか。ずいぶん昔に思えたんだが、六十年も経っちゃいないんだね。あたしと違って還暦前なんだ。まあ、見世の方は四十半ばでご臨終だったけどね……、また横道に逸れちまったじゃないか。お前さんが太陽暦だなんて、小難しいことを言い出すからだよ。今度ぁあたしのせいじゃないよ。
あたしの親父が始めた江戸町二丁目の『さのや』と角町にあった『槌や』が一緒になって出来たのが佐野槌なんだよ。どちらも半籬の中見世だよ。ついでにいうと親父は揚屋町にも『佐野や』って見世を持っていたんだが、その三つの見世を一つにしたのが佐野槌って見世なんだよ。お女郎は三つ併せると百人を超えたんだが、江戸町の見世にはそんなに置けないからね。親父が証文を巻いてやったんだよ。なんで証文を巻いたかって? そりゃご祝儀だよ。あたしと『槌や』の女将だった「勢以」が所帯を持ったんだよ。そのご祝儀に、あの里から出たいという女衆の証文を、親父が巻いてやったんだ。えっ? みんな出たがったろうって? そんなこたぁないよ。お女郎の部屋の数には限りがあるから、半分の五十人にしたかったんだけど、里から出たがらないお女郎が多くて、佐野槌で抱えたのは、五十八人になったんだ。それまで『さのや』では芸者も四人抱えていたんだが、それも見番に廻したよ。お前さん怖い顔して、どうしたんだい? そんなに、女たちがあの里に残りたがるのが、不思議なのかい? まあ、今の吉原しか知らない人だと、想像できないかもしれないね。あたしたちは亡八、女たちにとっては苦界と呼ばれた吉原だけど、仲で生まれ育った者にとってはあすこが全てなんだよ。そりゃ証文を巻かれて、喜んで外の間夫のところに行ったお女郎もいたけど、大門から出て行くときはみんな寂しそうに涙ぐんでたよ。それにすぐに戻って来ちまった女もいたよ。それほど『さのや』や『槌や』が住みやすかったんだろうね。親父や女房の御蔭だね。そんなことがあったんで、仲でもちょいと評判になって、お客も増えたんだよ。それで、呼び出しになったのが四人、それぞれに新造と禿がついて、なんだかんだで、また百人を超える大所帯になっちまってね。呼び出しが出来たから、次の年の細見には半籬交で出たんだよ。本来、呼び出しは大見世だけに許されたものだからね。中見世の半籬で呼び出しがいると、交見世となって、半籬交見世って呼ばれるんだよ。知らなかったろ? これも今じゃほとんどの人は知らないことだね。仲の人間だって知らないやつの方が多くなってきてるんじゃないかな。それほど吉原は変わっちまったからね。ほらっ、また話が逸れたね。どうもお前さんと話してると、ついつい余計なことまで教えたくなっちまうな。さぞや、勉強が出来た口だろう?
甲午の次の年だから乙未の始めに大火で吉原が全部燃えてね。太陽暦でいうと1835年だね。どうだい、少しはあたしも出来るだろ? それで新しく見世を普請するんで隣に広げたりして大きくなったんだよ。偶さか隣が見世を畳んじまうんで、広げられたんだけどね。隣の見世の女たちも佐野槌で引き取ったんだよ。みんな喜んで見世を移ってくれたよ。それもこれも、親父や女房が評判を高めてくれた御蔭だね。ところがだ、二年後の丁酉にまた大火で吉原が焼けちまって、大変だったんだよ。それまで十年以上燃えなかったのに、一年の間を置いてまた燃えたから、仮宅から普請から色々物入りで畳んじまう見世も多かったよ。佐野槌はご贔屓が気を遣って、五十両だ百両だって持ってきてくれたから、なんとかなったけど、そうじゃない見世や茶屋は本当に厳しかったと思うよ。吉原の焼け太りなんて云われるけど、偶にだから良いんだよ。火事が続いちゃ仮宅も有難みがなくなるしね。
作品名:佐野槌 -張りの半籬交- 作家名:立花 詢