第八章 交響曲の旋律と
ハオリュウはそこで、ベッドに横たわるコウレンを見た。いつもなら、きっちり櫛の目が見える髪は、乱れて額に掛かっている。だが呼吸は安定していて、胸元がゆっくり動いていた。
「けれど、ミンウェイさん。……救出されて帰ってきた父を見て、ショックだったのも事実なんです。一気に十も歳を取ったようでした。――腰抜けなら、腰抜けのまま、僕を助けようなんて考えずに、藤咲の家から出なければよかったのにっ……!」
ハオリュウは拳を握りしめた。指に食い込む金の指輪は、父のこともえぐっていたに違いないのだ。
「本当に……父様は……!」
封じ込めていた感情が噴き上げ、濁流となって暴れ出した。やり場のない思いが渦を巻き、身を犯していく。ハオリュウは、それを押さえ込むように口を一文字に結び、うつむいた。
肩を震わせ、漏れ出しそうな声を殺す。さらさらと落ちてきた前髪で、情けない顔を覆い隠す。
理不尽な陰謀、無力な自分――。守りたいものを、守れるだけの力が欲しい。
噛みしめた唇に、痛みが走った。
――どのくらいそうしていたのだろうか。それは長いようにも、短いようにも感じられ、実のところよく分からない。
だが、その間、草の香りが揺れなかったことから、ミンウェイが身じろぎもせずに、そこに居てくれたことが分かる。彼が自分自身で心を鎮めるまで、彼女は黙って待っていてくれたのだ。
気恥ずかしく、罰(ばつ)が悪い。なんて言葉を放つか、逡巡する。
「――すみません。ありがとうございました」
彼が選んだ言葉は、謝罪と感謝だった。それが一番素直な気持ちだった。
吐き出してしまえば、不思議と心が落ち着いた。ハオリュウは、無意識に怒らせていた肩を下ろす。
ミンウェイは、ただ軽く首を振り、波打つ髪を豪奢に揺らした。
「いいえ。……ありがとう」
そう言って、彼女は長い睫毛を軽く伏せる。
彼女が『ありがとう』と返すのは、ちぐはぐな受け答えなのだが、ハオリュウは自然に受け止めた。心を開いてくれてありがとう。そういうことなのだろう。
窓から注ぎ込む白い陽射しが、ハオリュウの背中を押す。いろいろあったけれども、これでひと段落だ。
ふと、ミンウェイが音もなく立ち上がった。
ハオリュウが後ろ姿を目で追うと、その先にワゴンが置いてあった。ティーセットとサンドイッチの軽食が載せられている。
もともと彼女は、これらを届けに彼を見舞いに来て、彼が寝ていたので毛布を掛け、その結果、起こしてしまった、ということだったらしい。紅茶を淹れる軽やかな音と共に、芳醇な香りが漂う。彼は勧められるままに、紅茶をいただき、サンドイッチを摘んだ。
それほど空腹だったわけではないが、美味(うま)いものを口にすると心が安らぐ。ハオリュウは、ほっと息をつき、改めてミンウェイと向き合った。
「鷹刀一族の方々には、本当にお世話になりました」
ハオリュウは深々と頭を下げた。
初めは凶賊(ダリジィン)というだけで、嫌悪感があった。斑目一族に誘拐されたばかりということもあり、鷹刀一族も凶悪で粗暴な害悪だと決めつけた。だが接していくうちに、ふたつの一族の明白な違いが分かる。藤咲家と厳月家が、互いに貴族(シャトーア)といえど、まったく違うのと同じことだった。
「父が目を覚ましたら、実家から車を呼んで帰ります。改めてご挨拶に参りますが、父の状態が不安なのと、何より母が待っているので……。慌ただしくてすみません」
心労のため、母は正気を失った。そのことを父や異母姉に伝えるのは気が重いが、ふたりの無事な姿を見れば、母も快方に向かうに違いない。そう信じる。
ゆっくりとだが、確実に良い方向へと進んでいる。――と、思ったとき、ハオリュウは先送りにした案件について思い出し、顔を曇らせた。
「どうしたの?」
ミンウェイが、心配そうな目を向けてくる。それを見て、そういえば彼女は『あいつ』を可愛がっているのだったな、とハオリュウは思う。
彼は真顔になり、口調を改めた。――ささやかな、いたずら心を持って。
「……ミンウェイさん。これは、愚痴ですよ? 決して文句ではありません」
「はい?」
きょとんとした顔で、彼女が彼を見る。
「あなたの叔父のルイフォンが、僕の姉様に駆け落ちしようと持ちかけたんですよ」
その瞬間、彼女は目を見開き、何かを叫びそうになった口を両手で覆った。美しい顔は上気し、瞳はきらきらと輝いている。
明らかに喜んでいるのに、渋い顔のハオリュウの手前、気持ちを抑えようとしているらしい。けれど、次第に頬が緩んできているので、まったく意味がない。
ハオリュウは、追い打ちをかけるように、沈痛な面持ちを作って続けた。
「しかも、姉様も、その気なんです」
「あら、まぁ……、そうなの?」
ミンウェイの声が上ずっている。
やはりこれは、彼女のお好みの話題だったらしい。ハオリュウは内心でほくそ笑んだ。だが表向きは生真面目な顔のままだ。
「……ミンウェイさん、喜んでいますね。僕としては頭の痛い問題なんですよ」
「あ、いえ……。……ごめんなさい。あなたの立場からすれば飛んでもないことかもしれないけれど、ルイフォンは弟みたいなものだから、やはり純粋に嬉しいわ」
ハオリュウにたしなめられて、年上の美女がしょんぼりする姿は新鮮だった。
少々やりすぎだったかもしれないと反省する彼に、「それで……?」という彼女の遠慮がちの目線が向けられる。切れ長の瞳は、これ以上この話を続けていいものか打診しつつ、その奥にある好奇心を隠しきれていなかった。
「『家事もできない姉様が、いきなり平民(バイスア)の生活なんて無理。実家で特訓したら、祝福して送り出してあげる』と言いました」
ハオリュウは、にっこりと笑う。
「……え?」
にわかには信じられないと、ミンウェイはしばらく表情を止め、やがて緩やかに満面の笑顔を咲かす。軽く開いた口元には、指先が添えられ、その隙間から呟くような声が漏れた。
「あなたは猛反対すると思っていたわ……」
予想通りの反応に、ハオリュウはくすりと笑う。鉄壁の美女のように見えて、実のところミンウェイは素直で純粋だ。そんなことが徐々に分かってくるのも、なんだか嬉しい。
「賛成か、反対かなら、勿論、反対ですよ。身分や立場の問題だけじゃない。出会ったばかりの人間に一生を託す気になるなんて、どうかしている。――けど、姉様自身が彼を選んだんです。そしたら、仕方ないじゃないですか」
ハオリュウはそこで真顔になった。今度は演技ではない、真実の顔だった。
「……祝福しますよ。――ルイフォンは、いい奴です」
「ハオリュウ……」
瞳を潤ませ、「ありがとう」と言ってくるミンウェイに、ハオリュウは困惑する。彼女に礼を言われる筋合いはない。彼は異母姉のために決断しただけだ。
「それに、ルイフォンが少しでも姉様を泣かせるようなら、すぐにでも僕が迎えに行くまでです」
「そんなこと言って、本当にそうなるなんて思っていないのでしょう?」
ミンウェイがくすりと笑う。どうやら、彼女も彼のことを、だいぶ理解したようだった。
――今はまだ眠っている父、コウレン。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN