第八章 交響曲の旋律と
「……どういうことだ? 厳月の当主は――儂(わし)は、ここにいるだろう?」
憤慨し、唾を飛ばす。その様(さま)は憐れですらあり、ハオリュウは酷薄な笑みを浮かべる。
「何を言っているんですか。『あなた』に記憶を写したところで、厳月の当主の肉体にはなんの変化もありません。ふたりに同じ記憶があっても、肉体は別々――別人として、それぞれ生きているんです」
「儂(わし)がもうひとり、いる……?」
ハオリュウは薄く嗤い、ゆっくりと首を振った。そして、分かりやすいように、はっきりと告げる。
「厳月の当主の姿をしていない『あなた』は、もはや厳月の当主ではありません。『藤咲コウレン』です」
「な、なんだと!?」
コウレンは血相を変えた。
「これから『あなた』は、『藤咲コウレン』として生きていくんです」
「ふ、ふざけるな! そんな……、そんなことがっ……!」
コウレンは、ぎりぎりと音を立てて歯噛みした。取り返しのつかない事態に陥っていたことに、ようやく気づいたのだ。
コウレンの姿をした〈影〉は、自分自身の愚かさを呪うような殊勝な人間ではなかった。だから、残酷な事実をもたらしたハオリュウに怒りの矛先を向けた。
「この、このっ……!」
殴りかからんとして、ハオリュウに詰め寄る。
衰えの見え始めたコウレンと、急に背が伸びてきたハオリュウとでは、圧倒的な力の差はないかもしれない。だが体格的には、まだまだ大人と子供。大人には敵わないことは、シュアンで経験している。
だから、ハオリュウは機を逃さぬよう、絶妙なタイミングで余裕の笑みを浮かべた。
――この部屋を、コウレンを訪れた真の目的を口にする。
「僕と、取り引きしませんか?」
明らかに子供の声であるハスキーボイスが、魔性の響きを持って木霊(こだま)した。
ハオリュウは、闇色の目でコウレンを見つめる。その視線に気圧(けお)され、コウレンの振り上げた拳が空中で凍りつき、やがてゆっくりと下ろされた。
「取り引き、だと?」
「僕と『あなた』の利害は一致しているんですよ」
涼しげな声で、ハオリュウが言う。
「藤咲コウレンである『あなた』がすべきことは、厳月家の繁栄のために尽くすことではなく、藤咲家を盛りたてることでしょう? 藤咲家の嫡子の僕と同じです」
ハオリュウの言うことは、まったくもって真実だった。けれど、その現実は、即座に受け入れられるようなものではない。
「何を言う! 儂(わし)は厳月の当主だ。藤咲のためになんか!」
怒りの赤を超えた、どす黒い顔でコウレンが体を震わせる。
「でも、厳月の屋敷には、『あなた』とは別人である厳月の当主がいますよ」
「違う! 儂(わし)が……、儂(わし)こそが、厳月の当主だ……!」
斑目一族や〈蝿(ムスカ)〉への怒り。今も厳月家の屋敷でのうのうとしている『自分自身』への妬み。これからの自分の運命への恐れ……。
複雑な思いが絡み合い、コウレンの顔色は目まぐるしく変化する。その不安定な心の隙間に、ハオリュウは誘惑の美酒を静かに注ぎ込む。
「『あなた』は、自分をこんな目に遭わせた者たちが、憎くありませんか?」
ハスキーボイスが、甘い芳香を放つ。
「残念ながら、『あなた』を元に戻す術(すべ)はないと聞いています。けれど復讐ならば、可能です」
「……」
「過ぎたことを悔やむよりも、先に進むべきです。――『あなた』は、婚礼衣装担当家に選ばれた藤咲家の当主『藤咲コウレン』です。今一番、隆盛を誇る貴族(シャトーア)ですよ。厳月の当主だったことを忘れ、藤咲の当主として、栄華を極めるんです。そして、その権力と財力でもって復讐すればいい」
「……!」
かっ、とコウレンの目が見開かれた。ハオリュウは、相手が堕ちたことを確信し、口の端を上げる。
そんな見透かしたような笑みが、癇(かん)に障ったのだろう。コウレンはぎろりとハオリュウを睨みつけ、鼻を鳴らした。
「はっ! 藤咲の小僧が何を言う? お前からすれば、儂(わし)は父親の体を奪った仇(かたき)だ。取り引きなどと言って、儂(わし)の足元をすくおうという肚(はら)だろう?」
「そうおっしゃると思いましたよ」
ハオリュウは焦ることなく、薄っすらと嗤った。
「でも残念ながら、仇(かたき)を取ろうと思うほど、僕は父と仲が良くなかったんですよ。……ご存知ありませんか? 正当な後継者の地位にありながら、親族中から邪魔者扱いされている、平民(バイスア)を母に持つの嫡子の噂を――」
思い当たったのか、コウレンがぴくりと眉を動かした。
「聞いたことがあるな」
「僕は小さいころ、怒った大叔父に殴り飛ばされそうになったことがありました。そのとき僕を庇ってくれたのは異母姉であり、抗議すべきだった父は脅えているだけでした。父は善人かもしれませんが、役立たずです」
そこでハオリュウは、コウレンの顔をぐっと覗き込んだ。
「でも『あなた』なら、僕の理想の父に、そして藤咲家にふさわしい当主になってくださるでしょう?」
ハオリュウの漆黒の瞳が嗤う。少年の形をした闇が、コウレンを侵食していく。だがコウレンには、それが見えていなかった。だから、鼻息荒くハオリュウに尋ねた。
「それで、儂(わし)が藤咲家の当主を演じてやるとして、その見返りはなんだ?」
『演じてやる』という、自分の言葉の厚かましさに気づいているのか、いないのか。まだ態度を決め兼ねているような素振りを見せつつも、コウレンがすっかりその気になっているのは、火を見るより明らかだった。
「僕は、『あなた』が『藤咲コウレン』として藤咲家に溶け込めるよう、協力しますよ」
そう言いながら、ハオリュウはティーカップを手に取る。
「例えば、父はハーブティーが嫌いなんですよ。匂いがどうしても苦手だとか。それを平気な顔で飲んでいたら、藤咲の者たちは違和感を覚えますよね」
「お前……! わざと、この茶を……」
「ええ。――お茶くらいなら、好みが変わったとでも言えばいいでしょう。けれど、『藤咲コウレン』として明らかにおかしな言動を取ったとき、親族から『気が触れた』と決めつけられて、失脚させられる可能性もあります。父は嫌われていますからね」
「……」
コウレンが憮然とした面持ちで、ハオリュウを見やった。その顔には、藤咲家の当主に成り済ましたところで、ちっとも権勢を振るえないではないかと、ありありと書かれていた。
「僕がいれば大丈夫ですよ」
ハオリュウがにっこりと笑う。
「まず手始めに、父の秘書を解雇しましょう。『あなた』にとって一番、障害となる相手です」
「藤咲の秘書は、確かお前の伯父ではなかったか?」
コウレンは驚きの声を上げた。
無能な当主が今まで藤咲家を支えてこれたのは、秘書の働きがあってこそ。それはライバルである厳月家の当主であった〈影〉も、痛いほど知っていた。藤咲家が衣装担当家の役職を得られたのも、秘書の手腕に依るところが大きかった。
藤咲家にとって不可欠な人間であり、かつハオリュウの伯父である男を排除するという。〈影〉が訝しむのは当然だった。
作品名:第八章 交響曲の旋律と 作家名:NaN