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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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「いつか私は禧嬪にも言いました。あの者の立場は我々が考える以上に複雑です。何をしても、誰も禧嬪の行動を良いようには理解せず、むしろ誤解する。今回の出来事は誰が悪いのでもないと存じます。殿下はユンをこの際に世子に立てるお許しを戴きたいご一心であらせられ、大妃さまは王室の血を守ろうとなさった。ゆえに生じた哀しきすれ違いではありませんか」
 粛宗が眼を見開いた。
「母上がそのようなことをそなたに言われたのか? 中殿」
「はい、少し前でしたか。ユンを初めてご披露した日です。禧嬪を厭う真実の理由は、禧嬪自身に原因があるというより、身分によるものだと仰せでした。恐らくは」
 王妃はここで言葉を句切り、慎重に言葉を選びつつ言った。
「賤民出身という一点において、義母上さまはどうしても禧嬪を認められなかったのでは。ですが、殿下、それは禧嬪の責任ではありません。人は誰しも生まれてくる境遇を選ぶことはできないのです」
「それでは、そなたはユンを世子に立てても良いというのか?」
 王妃がいつものような優しい微笑を浮かべた。粛宗は何故か、この穏やかな笑みを向けられると、心が落ち着いてくる。王妃の纏う穏やかな空気に包まれていると、温かな春の大気にくるまれているような心地よさを感じるのだ。
 禧嬪に感じる嵐のような烈しい情熱はない代わりに、心が鎮まってゆくような安らぎを与えてくれる存在が王妃だった。
「それは以前も申し上げたではありませんか。私に異論はまったくございません。確かに義母上のお考えのように、いずれはユンを私の養子に迎えたいとは考えておりますし、禧嬪もそのことは承知しております。だた、ユンは何と申してもまだ赤児です。せめて物心つくまでは禧嬪の手許で育てさせてやれば良いと私は考えております」
「そなたを妻として迎えられて良かったと、今ほど我が身の幸運を思ったことはない、中殿」
 粛宗がしみじみと言った。
「いいえ、私は中殿として至らぬことばかりです。国母として一番大切な殿下の御子を産むというお役目を果たすこともできませんでした。それでも、殿下は甲斐のない私を中殿として重んじ慈しんで下されます。私こそ、お優しい殿下にお仕えでき、幸せだと思うております」
「子がおらぬことなど関係ない。そなたは、それ以上のもの―美しき心、真心を私にくれた。何も自分を卑下することはないぞ」
 粛宗は手を伸ばし、王妃の髪を撫でた。二人共に当然ながら喪服姿であるが、簡素な喪服姿の王妃はかえって本来の清らかな美しさが際立っていた。
 ただ一人の王子の母が禧嬪であることが不満なのではない。それでも、この瞬間、彼は世継ぎたるべき王子が何故、この聡明で美しい王妃を母として生まれなかったのかを心底から残念に思った。
 粛宗は大妃の骸に掛けられた白布をそっと捲った。あたかも眠っているかのような安らかな表情は、生前の大妃の癇性さは微塵も感じられない。
 四十二歳という年齢の割に若々しい美貌は死しても損なわれてはいなかった。粛宗は静かに母の髪を、頬を撫でた。
「母上が望まれたように、私はこの国の王として、後世に語り継がれるような賢王として民のために尽くして参ります。どうかこれよりは遠くからお見守り下さい」
「義母上さま、幼くして後宮に入った私をこれまで教え導いていただき、ありがとうございます。どうかお心安らかにお眠り下さいませ。私も微力ながら、国王殿下をお支えしてこの国の母として名に恥じない王妃になりたいと存じます」
 王妃が言い終わるや、粛宗は泣き崩れ、王妃にすがりついた。 
「素顔の私は、こんなにも女々しく弱い男だ、中殿。こんな男でも、そなたは付いてきてくれるか」
「もちろんです。私は殿下の妻ですゆえ」
 頼もしい王妃の言葉に、粛宗は余計に涙を堪えられなかった。入内したときは抱くはおか触れることも躊躇われた幼い王妃は、いつしか身体だけでなく精神的にも一人前の女性となっていたのだ。年下の王妃がここまで頼もしく思えたことはなかった。
 それにしても、突然、母が倒れたと聞かされた時、自分は母の余命長からぬことも知らず、茫然事実の体であった。今また、自分が不用意にユンやオクチョンの話を持ち出したことが母の寿命を縮めてしまった。
 自分がオクチョンを愛したことがそこまで母を追い詰めたのかと思えば、粛宗の心は複雑であった。オクチョン自身に罪はないと分かり切っていながら、何故か恨めしさを憶えずにはいられないのだった。

  孤独な選択

 翌月、禧嬪張氏の産んだ第一王子イ・ユンの立太子礼が厳かに行われた。都漢陽は、桜が美しく咲きそろう季節になっていた。
 いまだ明聖大妃の喪中のため、国王以下、朝臣一同も皆、喪服姿という一種異様な中での世子冊立に、当初は異を唱える者たちも多かった。けれども、粛宗は断固として己れの意思を貫いた。
 これまで禧嬪張氏所生の王子を世子に立てるのを猛反対していた人物―大妃が亡くなったのを潮に、愛息子の世子冊立を熱望していた王が事を急いだのは誰の眼にも明らかであった。
 ただ、誰もが不審に思ったのは、無事世子冊立の儀式を終え、百官打ち揃っての祝福を受ける場に国王はともかく、王妃の姿が見えなかったことである。
 本来、国王の隣に立つべきなのは側室である禧嬪張氏ではなく、正室たる王妃である。なのに、何故、王妃ではなく禧嬪張氏がいたのか? 様々な憶測が乱れ飛んだが、真実は不明のままだった。
 何しろ、粛宗の禧嬪に対する寵愛は今もって厚い。更に禧嬪を眼の敵にしていた明聖大妃もいなくなった今、現王のただ一人の王子の生母禧嬪の存在は王妃を凌ぐほど大きなものとなりつつあった。
 粛宗の隣には禧嬪が寄り添い、当然のようにその腕にはまだ赤児の王子が抱かれている。禧嬪もやはり喪服姿であったが、その静かな表情から彼女が何を考えているのかを知ることができる者はいなかった。
 これをもって、ユンは正式に認められた朝鮮国の世継ぎとなる。

 ふうわり、眼の前を薄紅色の小さな花びらが流れてゆき、オクチョンは眼を細めた。
 今、都はどこかもかしこも桜が満開で、それこそ薄紅色の靄に包まれたようだ。広い宮殿の庭園にも桜が一斉に開き、脚を向ければいつでも花見を堪能できる。
 その日、オクチョンはユンを連れ、申尚宮とミニョンと共に庭園を散策した。ミニョンがユンを抱き、静々と後ろから付いてくる。もちろん、世子となった息子には専任の保母尚宮がついている。保母尚宮は乳も豊かに出て、子育ての経験のある女官が抜擢される。
 しかし、こうして母子水入らずで過ごすときには保母尚宮ではなく、オクチョンの信頼厚い申尚宮かミニョンがユンの世話係を務めていた。
 世子冊立の儀式は、つい数日前に滞りなく終わった。大妃の突然の崩御から一ヶ月を経て、漸くスンを初め、王妃、側室であるオクチョンも喪服から普段の装いへと戻った。
 世子冊立の儀式について、皆が何と噂しているかはオクチョンも知っている。
―何故、殿下のお隣に中殿さまではなく、禧嬪張氏が立っているのだ?