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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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「確かに私は王です。ですが、その前に人であり、母上の息子でもあるのです。今は国王としてではなく、息子としてお話ししております」
「孫を跡取りとして認めるか否か、ということか」
 大妃は呟き、眼を開いた。
「できれば、母上のお心をかき乱すようなことはしたくありません」
 粛宗の言葉に、大妃が自嘲めいた笑みを刻んだ。
「もう遅い、主上。その言葉を十年前に聞きたかった。そなたがあの女を寵愛したときから、私の心が平穏であったことなどなかった」
 あまりの言葉に、粛宗は息を呑んだ。
「母上はそこまで禧嬪をお嫌いになりますか?」
 大妃からその問いについて、いらえはなかった。代わりに彼女はこんなことを言った。
「私は鬼でも蛇でもない。自分の血を引いた孫は可愛いと思う。ゆえに、王子を世子に立てることに異論はない。ただ」
「ただ?」
 粛宗は母の顔を真正面から見つめた。
「王子を今のままで世子に立てることはできぬ」
「と、仰せられますと?」
 戸惑いがちに聞き返せば、大妃は、はっきりと言った。
「王子を禧嬪から引き離し、中殿に育てさせるのだ。中殿の養子とし、正式な嫡出子として養育する。これが私からの条件だ」
「―」
 しばらく粛宗から声はなかった。
「母上、ユンはまだ生後数ヶ月の赤児です。そのような頑是無き者を生母から引き離すとは、あまりに惨い」
 大妃が呆れたように言った。
「そなたが憐れに思うのは小さな息子ではなく、その母親の方であろう」
 黙り込む粛宗を見て、大妃は厳かにも聞こえる口調で言った。
「主上、私は譲れるところまでは譲った。これ以上の話はない」
 粛宗は端座した膝に乗せた手を握りしめた。その手が白くなるほど力を込めている。
「母上、禧嬪は母上が思し召すようなおなごではありません。一度、曇りなき眼であの者をご覧になって下さい」
 大妃は溜息をついた。
「そう申すそなたの眼が曇っておるとは考えたこともないのか、主上? もっとも、昔から女に血迷うた男にはつける薬はないというが」
 大妃は少し息を継いで、続けた。
「先刻、母親の話をしたな。母というのは子の無事だけを願うものだと。であれば、主上、禧嬪だとて母親だ、子が真に可愛ければ、自ら中殿に王子を託すべきではないのか。側室の子でも王になれぬことはない。されど、側室より名門ミン氏出身の中殿を母とする方が王子の将来には何倍も良いと聡い者であれば、とうに知っているはずだ」
「つまりは、母上は禧嬪が我が子よりも自分を可愛いと思っていると仰せなのですね」
「そうだ。王子を手許に置く限り、禧嬪の後宮での立場は盤石だからな。ましてや、王子は現在、そなたのただ一人の御子だ。誰も口には出さぬが、王子が次の王になる可能性が高いことは存じておろう」
「あれは、そのような野心は持っておりません。我が子を王位につけたいなどと一度も口にしたことはないのです」
 懸命に禧嬪を庇う粛宗を、大妃は冷めた眼で見据えた。
「愚かなことを仰せられるな。女が男の前で本音を口にするとでも? 殊に、そなたは王だ、王の寵愛を繋ぎ止めておくためには、後宮の女であれば禧嬪ならずとも本音は出すまいて。良い加減に眼を覚ますのだ、主上」
 そのときだった。大妃がツと小さく呻き、夜具に打ち付した。
「母上、母上っ」
 粛宗が顔色を変えて叫ぶ。その尋常でない声を聞きつけ、隣室に控えていた尚宮が飛んできた。
「いかがなされました? 大妃さま! 大妃さま」
 尚宮が半泣きの形相で叫んだ。
「誰か御医を呼ぶのだ、一刻も早く」
 粛宗は石になったかのように固まり、その場の喧噪を凝視することしかできなかった。
 その夕刻、第十九代国王粛宗の母明聖大妃は崩御した。
 粛宗は気が抜けたような体になり、大妃の亡骸から寸分たりとも離れようとはしなかった。大妃の死が御医によって診断されて丸一日以上経過しても、納棺も許さず、祭壇を組むことさえ許そうとしなかった。
 食事はむろん眠ることもせず、大妃の側で惚けたように座り続ける王を見て、このままでは国王までもが大妃に続いて崩御―最悪の事態もあり得ると重臣たちは本気で憂えた。
 重臣一同が中宮殿を訪ね、王を説得して欲しいと嘆願し、王妃もまた幾度となく粛宗に大殿に戻って少しでも寝むように勧めても、王は言葉さえ発せない状態であった。
 大妃の死から三日後の朝、王妃は大妃殿に足を運んだ。義母の死以来、これが何度目になるか知れたものではない。亡くなった当夜は夜通し粛宗と共に亡骸の側にいたのだが、身体の弱い王妃は一旦、中宮殿に戻ったのだ。
 そのときも、粛宗は魂を手放したような有り様で亡骸の側に座り込んでいた。
「殿下。少しはお休みにならねば、殿下まで、お倒れになってしまいます」
 王妃がそっと声をかけると、粛宗が泣き笑いの表情で言った。
「母上が亡くなられて、私に生きている意味はない」
「―」
 王妃は固唾を呑んだ。王の眼から大粒の涙がしとどに溢れていた。
「私が殺したようなものだ」
 初めて聞く言葉らしい言葉に、王妃は眼を見開いた。
「そのような。殿下が大妃さまを殺すなど、あり得ないことです」
 だが、粛宗はゆるりと首を振った。
「判っていたのに、私は」
 ふいに粛宗は耐えられないというように両手で顔を覆った。低い嗚咽が洩れ、王の哀しみが王妃の心を烈しく揺さぶった。
「一体、何があったのですか?」 
 大妃の死因はやはり、例の血の道の発作だと聞かされている。利発な王妃はハッとした。
「何か義母上さまのお心を昂ぶらせるようなお話でもなさったのですか?」
 粛宗がゆるゆると顔を上げた。
「禧嬪の話をしたのだ」
 王妃は言葉を失った。確かに大妃は禧嬪を忌み嫌っていた―というより、むしろ憎んでいた。禧嬪の話を王が持ち出したことで、大妃が気を昂ぶらせたのは容易に想像できる。
「今朝はいつになく母上もご気分が良いようで、私も油断してしまった。この機会ならば、もしやユンを世子に冊立する件についても承知して下されるのではないかと話してしまったのだ。まさか、生命を落とされるほど激高されるとは思いもしなかった。返す返すも私が浅はかであった」
 粛宗は力なく言った。
「母上は仰せであったよ。ユンを禧嬪ではなく、そなたに引き取らせて養育させる。それがユンを王世子に立てる条件で、それ以上の譲歩はできないと」
 それで、粛宗が大方は大妃に逆らったのであろう。そのことが、大妃の癇を立てたのだ。
 だが、利口な王妃はここで自分の考えを口にしたりはしなかった。
 粛宗が沈んだ声で言った。
「禧嬪はそのことを承知しないだろうと母上は仰せだった。自分が権力を掌握しておくためにも、ユンを手許に置いておきたがるはずだと言われた。私は、禧嬪にそのような野心はないと言い切った。そんな私に母上は、そなたの方こそ眼が曇っている、目を覚ませと」
「殿下」
 王妃は心からの労りを込めて粛宗を呼んだ。王の濡れた瞳が王妃を見ている。