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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 あのときは一旦断られたものの、その後、宮殿で再開し、オクチョンは彼の許に来てくれた。初めて知り合ったあの日から、彼はオクチョンに偽りを囁いたことは一度たりともない。愛する者には常に隠し事はせず、真実を明かすべきだというのが彼の信条であった。
 だが、この日、彼は初めてオクチョンに嘘をついた。そのせいでスンの表情が冴えなかったことに、オクチョンが気づくはずもなかった。
 オクチョンはオクチョンで、スンの王妃への想いに気づいてしまったことで動揺していたからだ。
 綻び始めた絆は意外なほどに脆いものだと、この時、誰もが知らなかった。その綻びは気づかない中に少しずつひろがり、やがて気づいたときには修復不可能なほどになっている。オクチョンもスンもまだ、そのことを知らなかった。
 人の心は存外、弱いものだ。ひとたび亀裂の入った信頼がいとも容易く崩れ去ることを知る人は少ない。

 大妃が倒れて五日目のことである。粛宗は大妃殿を訪れていた。少し遅めの朝食を手ずから母に食べさせていた。大妃殿への見舞いはここ数日、彼の日課となりつつある。
 もっとも、オクチョンを側に置くまで、彼はいつも母を訪ねて挨拶するのを欠かしたことはなかった。考えてみれば、寵愛する女のために大恩ある実の母を蔑ろにするなど、本来は許されるべきではない親不孝ではないか。
 これからは以前のように母を再々訪ねようと、彼は今までの大人げない行動を悔いてさえいた。
 大妃の乳姉妹でもある尚宮が小卓に乗せた粥を運んでくる。粥だけでなく、もやしと青菜を上品な味付けで煮込んだものや、珍しい果物など、大妃の好物ばかりが並んでいる。
 姉妹のように育った尚宮は、大妃の好みは恐らく大妃自身より心得ているのかもしれなかった。そんな忠義の者が母の側近くにいることを粛宗は心からありがたいと思う。
「母上、今日の果物は蜜柑にございます。お粥を召し上がった後、私が?いて差し上げましょう」
 王の何気ない声を聞いた尚宮が狼狽した。
「殿下、そのようなことは私めが致します」
 粛宗は笑顔で振り向いた。
「構わぬ。私がして差し上げたいのだ」
 大妃より数歳年長のこの尚宮は、粛宗にとっても気心の知れた伯母のようなものだ。彼が幼い頃はこの女に負われたこともあったのだ。
「畏まりました」
 尚宮も微笑んだ。そのままの笑顔を大妃に向ける。
「大妃さまは、国王殿下がまた、こちらにお越しになってからというもの、とてもお具合がよろしいのです」
 粛宗はわずかに後ろめたい想いで母を見た。
「これまで、あまりに無沙汰を続けてしまいました」
 大妃は床の上に起き上がっている。いまだ夜着姿ではあるものの、倒れたと聞いて駆けつけた直後に比べれば、顔色は随分と良くなっていた。白かった頬にも血色が戻りつつある。
 大妃は笑った。
「何の主上が気に病まれることはない。母は子がどうしていようが、健やかに過ごしておればそれで良いのだ。そなたは変わらず、こうしてご立派な王として日々の務めを果たされている。そなたを誇りに思いこそすれ、親不孝だと思うたことはない」
 粛宗は傍らの小卓から器を取った。銀の匙で粥を掬う。
「そのように仰せになって戴くと、余計に身の縮む想いです」
 匙を差し出すと、大妃の面に面はゆそうな表情が浮かぶ。使用人にも厳しく神経質な大妃がこのような無防備な笑顔を向けるのは、息子に対してだけだと、長年、大妃の側にいる尚宮は知っていた。
「息子に手ずから食べさせて貰うなど、童に戻った気分だ。のう、ソヒ?」
 そして、乳姉妹を職名ではなく幼少時代のように名前で呼ぶ時、大妃の機嫌がすごぶる良いことも尚宮は知っている。
「さようにございますね、大妃さま」
 この尚宮は長い後宮生活で、一度結婚している。大妃の父の仲立ちで相応の両班家に嫁ぎ一男一女を儲けた後、下の娘が七歳になった春、再び後宮に戻った。彼女の子どもたちは大妃の口利きで、息子は官職を得、娘は末流とはいえ、大妃の遠縁に嫁した。尚宮はそのことでも大妃に大恩を感じている。
 この忠義の尚宮が大妃の側を離れていたのは、嫁いで下の娘が七歳になるまでの十年だけだ。良人は一昨年、病を得て亡くなった。離れていることの多かった結婚生活でも夫婦仲は円満で、良人は大妃に対する妻の忠誠をよく理解してくれていたのだ。
「そなたはとうに私の背丈を超したというのに、身が縮むはなかろう」
 大妃が粛宗に揶揄するように言うのに、粛宗は肩を竦めた。
「母上もおっしゃいますね」
 そこで、大妃が懐かしげに眼を細めた。
「そなたが私の背を越したのは、いつであったか」
 傍らから尚宮が控えめに言い添えた。
「十二歳におなりの年でございます」
 その頃、尚宮は再び宮仕えを始めて二年目目だった。
「おお、そうであったの。あの頃、主上は急にお身大きうなられたのであった」
 粛宗は照れ笑いを浮かべ、母の口に匙を入れた。
「子どもの頃の話をされますと、何か背筋がむずがゆくなります」
 大妃は声を立てて笑った。
「何の、母親というものは息子が幾つになっても幼き頃の姿のままに見えるものだ。主上、幾らご立派に成長されても、この母には今もそなたが童に見える」
「さようにございますか」
 粛宗は笑いながら、また粥を掬って母の口に近づける。
「こうして息子に粥を食べさせて貰える私は、この国一番の果報な母親であろうよ」
 こんな幸せそうな大妃を見るのは、久しぶりだ。まったく、あの妖婦が後宮に来てから、大妃さまはいつも鬱々と意に任せない日々を過ごされていたのだ。
 尚宮はいつになく嬉しげな大妃の声を聞き、そっと立ち上がった。
ここは折角の母子水入らずの時間、二人きりにして差し上げようと気を遣ったのである。
 扉が静かに閉まったのを見て、粛宗は口を開いた。母親という言葉から、思いついたことがあった。
「母上、先ほどの話でふと考えたのですが」
 大妃が黙って彼を見た。話の続きを促されているように思え、粛宗は続けた。
「ユンをどのようにご覧になりますか?」
 唐突にふられた話題に、大妃は一瞬、たじろいだ様子を見せた。母の当惑ぶりに、彼は自分の話題の選択が間違っていたことに気づき、慌てた。
「ご病気のときにするお話ではなかったですね。また、時を改めましょう」
 だが、大妃は首を振った。
「いや、そなたとは一度、そのことで話をせねばならぬと思うていた。構わぬ」
 大妃は言い、眼を閉じた。その様子から、母が言葉を探しているのであろうことは判る。粛宗は辛抱強く母の返答を待ち続けた。
 ややあって、大妃は眼を瞑ったまま口を開いた。
「王子の面立ちは主上の幼な顔とうり二つだ。秀でた良い面差しをしておられる。ゆく末が愉しみな孫だと思うている」
 その言葉に勇気を得て、粛宗は勢い込んだ。
「それでは、ユンを世子に立てるのをお許し下さいますか?」
 大妃が笑った。
「そなたはこの国の王ではないか。私は王の母に過ぎぬ。そなたがこうと決めたことに反対できる者は、この国にはおらぬはずだ」
 粛宗は真顔で母を見た。