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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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「可哀想に、中殿も泣いていた。そなたと同じように、自分が至らないからだと謝っていたよ」
 オクチョンは顔を伏せた。自分の顔が醜く歪んでしまうのが判ったからだ。
 大妃殿の一室、スンが王妃と二人きりで向かい合い、泣いている王妃をスンが抱きしめ優しく背を叩き、涙をぬぐっている様子が見てもいないのに鮮やかに浮かび上がる。
―中殿さまにも、今、私にしてくれたように優しく微笑みかけて抱きしめてあげたのね。
 オクチョンは歯ぎしりをしたい想いに駆られた。その感情は焦燥感にも似ている。
 今、自分を優しく抱きしめてくれた男が急に遠くにいってしまったような気がしてならない。
 だが、けして、この醜い心をスンに見せてはらないのだ。オクチョンは自らを硬く戒め、また笑顔を拵えた。
「それで気がかりなのは大妃さまのご容態だわ。その後、どうなさったのかしら」
 ここは王妃よりはまず彼の大切な母親を気にかけるべきだろうと、質問の矛先を変える。
 案の定、スンの美しい顔が翳った。まるで光り輝いていた月が心ない雲に閉ざされたかのようだ。こういう不安げな顔をされると、やはりオクチョンは弱い。他の女に心を向けている男だと知りつつも、つい許してしまう。
 思えば、彼と知り合ってからというもの、ずっと似たような関係だった。二つ年下のスンは、普段は年の差など感じさせないほど包容力と決断力に富む大人の男だ。なのに、ふとした隙に年下らしい甘えを滲ませ、そうなるとオクチョンはついスンを許してしまうのだ。考えてみれば、男の本来持つ狡さというもので、スン自身、意識してやっているわけではないのだろう。
「血の道が高じてしまったらしい。御医の診立てはそのようだ」
「そう、なの。たいしたことがなかったのであれば、良かったわ」
 血の道とは更年期障害で、大妃の年齢であれば誰しも大なり小なり出ても不思議はない症状である。動揺しているオクチョンは、だからこの時、スンの顔色が冴えないのは、もっと別の理由があるとは考えもしなかった。
 オクチョンの涙を拭いながら、スンはまったく見当違いのことを考えていたのだ。
 オクチョンの住まいを訪れるのが遅れたのは、昨夜、スンは御医を直々に大殿に召し出し、大妃の病気について詳細な報告を受けていたからである。王妃の話どおり、大妃はもう二年ほど前、この御医に自らの病について問いただしたそうだ。
―一切の嘘偽りは許さぬ。
 と言われ、御医は真実をすべて大妃に話したという。御医の前で大妃は顔色一つ変えず、狼狽えもせず、すべての話を聞き終え、
―ご苦労であった。
 と、ねぎらいまでした。
―母上のご病気は、そこまで深刻なものなのか?
 最初にまず切り出したスンに、御医ははっきりと長くて数年、最悪の場合は数ヶ月から半年と余命宣告をした。大妃の病気は正しく言えば、更年期障害ではない。偏った食事と運動不足からくる一種の高血圧症状であった。しかし、当時の医学では、それが更年期からくる血の道、つまり頭に血が上りやすいために起こる発作と大雑把に診断されてしまったのだ。
―今度、どのように対処すれば、母上のご寿命を最大限、引き延ばすことができる?
 最後に問えば、御医は恭しく言上した。
―できるだけ、御心を安らかに保つのがいちばんの薬にございます。
 既に適切な薬などは調合して、現在、できる限りの投薬治療はしているという御医の報告に、スンもまた御医の労をねぎらって帰した。 
 御医の言葉は的中した。ゆえにこそ、昨日、オクチョンが姿を現したことで母は癇を立て、発作を起こしてしまったのだろう。オクチョン自身には何の罪もないけれど、余計なことをしてくれたという意識はやはりぬぐえない。
 母大妃がオクチョンを毛嫌いしているのは、オクチョン本人も嫌というほど知っているはずだ。オクチョンが訪ねていかなければ、母が倒れることもなかったのではないかと考えてしまう自分がいる。事実、これは後で知ったことだが、王妃はオクチョンに大妃殿に行くのを止めたらしい。
 不幸なことに、王妃の意向を伝える使者が就善堂に着いた時、オクチョンは既に大妃殿に向かった後だった。
 母は余命幾ばくもないことを、息子である自分にまで隠していた。その裏には、粛宗にというよりはオクチョンに知られたくないという母の強い想いが隠れている。であれば、自分は息子として母の余命について余計なことをオクチョンに言うべきではない。
 たとえオクチョンをどれほど愛していようとも、母子の繋がりは強く、血で結ばれた親子の情は絶とうとしても絶てるものではない。思えば、この長い年月、自分はオクチョンへの愛に溺れたため、あまりにも母を遠ざけすぎた。
 女への情は情として、実の母親に対して、あまりに不実な行いではなかったのか? 今になって、粛宗の心には母につれなかった自分に対しての自責の念がいや増していた。
 それは、やはり大妃の生命が長からぬことを知ったからではあったろうが、大妃が余命について実の息子ではなく嫁の王妃にだけ伝えていたことも愕きであった。つまりは、母はそこまで王妃を信頼しているという証でもある。
 父である先王顕宗も若くして亡くなった。まだ働き盛りという年だったのだ。父が亡くなった時、自分はまだ十三歳の少年だった。すぐに即位したものの、年少の王を戴いた臣下たちは不安を隠せず、当時、先王のただ一人の妻であり王妃であった母に垂簾の政を望む廷臣たちも多かったと聞く。
 つまりは少年王に代わり、母后が王が成人するまで政を見るということだ。古来、まだ幼少である王が立った時、垂簾の政はしばしば行われ、珍しくはない。
 それでも、母は毅然として廷臣一同が居並ぶ中で宣言した。
―国王殿下は既に御年、十三歳におわします。十三歳といえば、十分に成年とみなされる年頃。しかも主上はお若くとも英明であらせられる。今更、この母ばしゃしゃり出る必要はない。
 このひと言で、粛宗は弱冠十三歳ながら、この国の王として親政を行うことになった。とはいえ、大妃である母が目立たない立場で後見をしたのは言うまでもない。
 大概の女人であれば、たとえ我が子といえども権力欲から垂簾の政をしたがるものだし、ましてや廷臣一同から請われれば一も二もなく承知しただろう。なのに、母はきっぱりと断り、息子を陰から見守る立場を選んだ。それは息子への深い愛と信頼からのものだった。
 そんな愛情深い母を自分はあまりに蔑ろにしすぎた。母がオクチョンに知られるのを望まないならば、今ここでオクチョンに真実を告げるべきではない。
 即座に判断した粛宗だった。しかし、彼は今までオクチョンに嘘をついたことはなかった。初めて求婚した時、彼女はまだ彼の正体を知らず、既に妻が居ると告げたら、オクチョンは彼の求愛を拒んだ。
―私は大勢の女と良人の愛を分け合いたくない。
 あの時、彼女はそう言った。仮に彼が妻はいないと嘘をつけば、オクチョンは容易く彼の手に墜ちただろう。けれど、スンは敢えて真実を告げた。愛しいと思った女に嘘をつく卑怯な手を使いたくなかったからだ。手に入れるなら正々堂々と彼女と向き合いたかった。