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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 表情とは裏腹に、口調はこの上なく優しい心から気遣うものだ。オクチョンの涙腺はこの深い声で、呆気なくまた崩壊した。
 大粒の涙がとめどなく溢れ出し、頬をつたい落ちる。
「ごめんなさい。スン、ごめんなさい」
 この涙には偽りはなかった。オクチョンは故もなく憎しみを向けてくる大妃が嫌いだ。つい最近までは大好きな男の母親だから、嫌われても孝養を尽くしたいと思っていた。けれど、王妃への憎しみが募るのと同様、理由もなくただ身分だけでオクチョンを蔑む大妃にも憎しみを憶えるようになった。
 ただスンが大好きで、誰よりも大切だと思うオクチョンの心は変わらない。だから、スンの大切な母親―たとえオクチョン自身は大嫌いであったとしても―が自分のせいで倒れたというならば、彼にはただ申し訳ないと思うばかりだ。
「どうしてオクチョンが謝る必要があるんだ?」
 スンに顔をのぞき込まれ、オクチョンは顔を背けた。一日中泣き通しで、到底見られた顔ではない。彼にはいつも綺麗だと思って欲しいという女心と、つい今し方まで心を占めていた醜い想いに気づかれるのではないかという不安が思わずさせたのだ。
 が、スンは都合よく解釈してくれたらしい。小さな息を吐くと、オクチョンの黒髪を撫でた。
「そなたは何も悪くない」
 彼はオクチョンを引き寄せ、その逞しい腕に閉じ込めた。
「そなたは常に立場をわきまえ、母上にも王妃にも気遣いを忘れない。ただ一人の王子の母であることをひけらかしもせず、王妃の後ろで慎ましく控えているではないか。そのお陰で、後宮は波風一つ立たず、俺も心安らかに政務に打ち込める。そなたはよくやっている、つまらないことを気に病むな」
 まるで幼い子を宥めるかのように優しく背中を叩かれ、オクチョンは恍惚りと眼を閉じた。
 そう、彼の言うとおり、心配することは何もない。彼がこうして胸に抱き、優しく慰めるのも流れる涙を拭うのも私一人なのだから。
 スンが好んで身につける香のかおりがオクチョンを包み込む。新緑を彷彿とさせる清々しい若葉の匂いは、若々しく凛々しい青年王にふさわしい。オクチョンは、スンに抱きしめられたときのこの香りが大好きだった。
 その時、突如として、幸せに浸りきる彼女の邪魔をする伏兵が現れた。
「まったく俺も甲斐性のない男だ」
 唐突に発せられた言葉に、オクチョンは男の胸に押しつけていた顔を離し、彼の顔を窺うように見上げた。
 その視線を逸らすでもなく受け止め、スンが困ったといいたげに眉を下げる。
「そなたも王妃も、俺には過ぎた女だ。なのに、俺は大切な者たちを泣かせてばかりいる」
 オクチョンは動揺に、声が上ずらないようにするのに精一杯だった。
「大妃さまがお倒れになってから、中殿さまにお会いになられたの?」
 ああ、と、スンは事もなげに頷いた。
「―」
 オクチョンは言葉もなかった。この一件以来、スンは初めて今日、ここに来たというのに、既に王妃の許には渡ったというのか。その事実に、スンに抱かれて感じていた幸せの余韻も冷めてゆく。
「母上が倒れられたと聞き、取るものもとりあえず大妃殿に伺った時、中殿に逢った。風邪を引いていたとかで、中殿は母上には会わず、そのまま帰ったよ。顔を見る程度は差し支えなかろうに、母上に風邪を移してはならないからと言っていた。本当に心優しい女だな」
 その言葉で、スンがわざわざ中宮殿に出向いたのではないのは判った。けれど、その後の言葉に、オクチョンは少なからず衝撃を受けた。
―本当に心優しい女だな。
 むろん、スンが王妃をあからさまに褒めるのは、これが初めてではない。しかし、このときのスンの口調、表情はこれまでと確かに微妙に違っていた。長年、彼の側にいた彼女だからこそ感じられる、本当にささやかな違いではあったけれど。
 そのときのスンの口調は、明らかに特定の女に愛しさを示す男のものだった。
 刹那、オクチョンは言葉もなかった。これまでスンは王妃を大切に遇してきた。しかし、それはあくまでも王妃の実家、権門家であるミン氏を慮り、またスンの生来優しい気性から娶った妻を無下にできないからだと信じていた。そこに心からの愛が―少なくとも男女間の情がさほどにあるとは考えてもいなかったのだ。
 だが、本当にそうなのだろうか。
 それは、あくまでもオクチョンが一方的に思い込んでいただけで、スンの王妃への想いはもっと違った別のものではなかったのだろうか。スンは生まれながらの王として育った。
 先代の王とその正妃との間に生まれ、生まれる前から王位を約束された何もかもに恵まれた男だ。生まれたときからすべてを保証されていたという点では、スンと王妃は酷似した境遇で生まれ育ったといえる。
 後宮はただ一人の男、王のためだけに存在し、そこに集められた女たちは国王一人に仕える。国王は花園に咲いた花をいつでも自由に手折り、愉しむだけ愉しんで飽きれば棄てる。それが許されるのが国王という地位なのだ。
 つまり、スンは彼のために存在する後宮の女たちを誰であれ、自由にできるのを知っている。というより、生まれたときから、それが当たり前だと信じていたし、それが彼なりの?常識?であったはず。一夫多妻を当たり前だと信じて育った男と、良人はただ一人の妻をだけを愛するのが人の道だと信ずるオクチョンと考え方は根底から違う。
 スンにとっては恐らく、王妃を愛するのも至極当たり前で、その一方でオクチョンを寵愛するのもごく当たり前のことなのだ。
―私は何と愚かな小娘だったのだろう。
 迂闊にも、オクチョンは、そのことに今まで気づかなかった。いや、というよりは気づいていたけれど、真実を知るのが怖くて眼を背けていたのかもしれない。
 スンの王妃への想いは、確かに気づかない深い部分でゆっくりと変化して深まっていったという一面もあるだろう。しかし、何よりもスンは端から?ただ一人の女だけを愛する?という認識がなかった。むしろ、その言い方がオクチョンの疑問には最適の応えのように思われた。
 もし、スンがオクチョン一人を愛するつもりなら、十数年前、彼がまだ国王だと知れる前に初めて求婚された時、?妻?とは別れると明確に宣言したに違いない。再び求婚された時、彼ははっきりと言ったではないか。
―俺は立場上、たくさんの妻を娶らなければならない。
 オクチョンはひとたびは彼の求愛を拒んだものの、結局は受け入れた。彼の側で生きるのと引き替えに、自分の心の叫びを押し殺したのだ。それほどにスンを愛していたし、彼と離れて生きてゆくことなど考えられなかったから。
 そうだ、スンは何も嘘は言っていない。彼は最初からオクチョンにひと言も約束はしなかった。
―さりながら、どれだけの妻を迎えても、いつもそなたをいちばん愛すると約束はできる。それで堪えてくれないか?
 オクチョンがいちばん欲しかった言葉をくれたわけではないのだ。スンの側に居たさのあまり、オクチョンが彼の言葉を都合よく理解しただけ。 
 オクチョンは低い声で言った。
「中殿さまはお優しい方だから、今度のこともご自分の責任のように思われていたのではないかしら」
 水を向けると、男はいともあっさりと術中に填る。