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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 オクチョンが固唾を呑んで見つめる中、ふと、王妃のたおやかな歩みが止まった。何を思ったか、王妃がつと振り返る。そのまなざしはあまりに真っすぐで、オクチョンは遠くからでさえ、まともに見つめ返せない。
 王妃の背後からは十数人の女官が続く。忠義者の筆頭尚宮初め、いずれも王妃に忠誠を誓う者ばかりで、これから実家で謹慎生活に入る王妃と運命を共にするのだ。
 王妃はオクチョンの許へとゆっくりと向かってきた。オクチョンは愕きのあまり、眼を見開いているしかない。
「そなたとは仲良くできると思っていたのに、残念だ」
 王妃のオクチョンを見つめるまなざしは凪いで、さざ波一つない水面のように澄んでいた。まさに、一点の曇りもない。
「殿下を頼む」
 それが、王妃の最後の言葉となった。恨みも呪いの言葉もなく、ひたすら静謐な瞳で見つめていたかと思うと、王妃は背を向けまた、ゆったりとした足取りで正門に向かった。
 王妃はやがて輿上の人となり、王妃を乗せた輿はお付きの女官や監視を兼ねた護衛官に守られるようにして去っていった。
 オクチョンは魂を抜かれたように、その場に佇んでいる。
―何なの、あれは。
 誇り高い王妃が今わの際になって取り乱すとも思えなかったし、それを期待したわけではなかった。ただ、流石に哀しみにうちひしがれているであろうと想像していたのに、オクチョンの想像はことごとく裏切られた。
 王妃の静まり返った美貌には、淡い微笑さえ浮かんでいるようにも見えた。
 肝心のオクチョンは王妃のあまりの潔さに完全に圧倒されてしまい、別れの科白一つ言えなかった。
 何をどうしたら、この悲惨な状況で笑えるというのか。
 すべてが終わった今、勝利者は間違いなく自分のはずなのに、どうしても勝ったという実感がしない。まるで敗れた王妃の方が勝利を勝ち取ったかのように堂々と宮殿を出ていった。
 この時、オクチョンは知らなかった。かつて仁敬王妃がオクチョンに感じた底知れなさこそが今、オクチョンが仁顕王妃に対して感じた空恐ろしさと同質のものであることを。
 オクチョンの瞼に、半月ほど前に見た一輪の蓮が色鮮やかに甦る。
 いつだったか、あの蓮池で大王大妃の哀しい恋を聞いた。あの場所に立つ度、オクチョンはあの話を思い出してしまう。少女だった大王大妃のはるかに年上の良人仁祖への辛い恋。
 大王大妃はオクチョンに語った。
―心に花を持て。忍従の時が来れば、やがて春が来る。
 だが、思うのだ。ひたすら耐えるだけでは、春は来ないし幸運を?み取れはしない。幸運とは待っていて転がり込むものではなく、自らの手で勝ち取るべものだ。
―私はただ耐えるだけの女にはなりません、大王大妃さま。
 今でも変わらず彼(か)の人への尊敬の念は持っているが、長い後宮生活でオクチョンの人生観は変わった。真逆になったと言っても良い。
 我慢していても、良いことは何もない。本当に手にしたいならば、自分で取りに行かなければならないし、そのために誰かを蹴落としたり犠牲を払わなければならないのなら、やむを得ない。
 大王大妃は、最初から仁祖の側室たちと争おうとはせず、正室でありながら側室たちに暗殺されかかったという。仮に大王大妃が側室たちと渡り合うだけの気概と覚悟があったとしたら、彼の人の運命もまた変わったかもしれない。
 その決死の覚悟が仁祖王の心を動かし得たかもしれないのだ。
 これからも自分のゆく手を阻む者はたとえ誰であろうが、容赦はしない。ことごとく踏みつぶす。
―二度と帰ってこないで。
 オクチョンは心の中で王妃に言った。
 雨は止むどころか、ますます勢いを増してゆく。オクチョンは濡れるのも構わず、その場に立ち尽くしていた。
  
 仁顕王妃がひっそりと宮殿を去った数ヶ月後、チャン・オクチョンの立后が決まった。
 王妃冊封の儀式は盛大に行われた。
 正殿前には王と新王妃のための席が百官をはるかに見下ろす高みに設けられた。
 その日、オクチョンは壇上で待つ粛宗の許へ正門から続く緋毛氈を一歩ずつ辿った。壇上では粛宗が王の正装に威儀を正して待ち受けている。オクチョンはといえば、やはり王妃の正装を纏っていた。
 今朝は日の出前に起き、申尚宮やミニョンたちの手により、儀式のための化粧などに臨んだのだ。今、初めて身につけた王妃の正装も冠もずっしりと重たく、身動きが取れないほどだ。しかしながら、その重みも国母となった我が身の担う重責だと思えば、何のことはない。
 静々と王の許に向かうオクチョンの背後からは大勢のやはり着飾った女官たちが付き従う。その中にはむろん、晴れやかな表情の申尚宮やミニョンの姿もあった。
 壇上へと続く階を一歩ずつ踏みしめながら、昇る。それこそが夢にまで見た場所。大好きな男の隣、王妃の席だ。
 スンのたった一人の?妻?たる王妃が立つ場所であり、あの場所に立った時、オクチョンは恋しい男の唯一無二の存在になれる。
 あと一歩でスンの許に届くかという場所で、オクチョンは不覚にも転んだ。転んだといっても、よろめいただけだ。やはり、着慣れぬ衣装や髢(かもじ)が負担をかけているのだ。
 それに、何といっても、この時、オクチョンはもう七ヶ月の身重だった。腹部もかなり大きくせり出していて、ただでさえ身動きが取り辛くなっている。
 オクチョンがよめろいたのを見、粛宗がすぐに壇上から動いた。正装の王がやはり正装の王妃を抱き上げる。
「重いでしょう」
 愛する男に抱きかかえられ、壇上へと運ばれながらオクチョンは恥ずかしさに紅くなって囁いた。
「羽のようだよ」
 粛宗も耳許で囁き返す。
「でも、流石に若いときのようにもゆかないな。俺も歳を取ったから」
 オクチョンは粛宗の胸に甘えるように身を寄せた。粛宗は壇上に戻ると、オクチョンをこの上ない大切な宝を扱うように恭しい手つきで下に降ろす。
 オクチョンがついに王の許へ辿り着き、傍らに並んだ。
 新しい王妃誕生の瞬間であった。
 賑やかに鳴っていた楽の音がピタリと止まり、しわぶき一つもできないような静けさの満ちる空間に、粛宗の浪々とした声音が響き渡る。
「チャン・オクチョンは世子イ・ユンの母にして、婦女子の徳高く、朕は本日ここにチャン・オクチョンを正妃とする」
 百官たちが勺を一斉に掲げた。
「国王殿下、万歳」
「中殿さま、万歳」
 無数の声が重なり合い、怒号のように大地を揺るがす。
―ついに、この場所に立ったのね。
 オクチョンは深呼吸して、はるか高い場所から居並ぶ臣下たちを見晴るかした。
 賤民の娘と蔑まれ続けてきたこの身が生まれながらの両班たちを跪かせたのだ。
 この場所こそが、大好きなスンにとって?一番?の女人が立つ場所なのだ。
 空を見上げれば、抜けるような蒼穹が宮殿を抱きしめるようにひろがっている。まさに雲一つなく、オクチョンの晴れの日をことほぐかのような秋晴れである。
 これから我が身がゆく道を暗示しているかのようで、オクチョンの胸は抑えきれない感動と歓びに満たされた。
 そう、何も心配は要らない。