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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 王妃は今は、ただすべてが虚しくてならなかった。自分が信じ続けた心の美しき女は、もうどこを探してもおらず、明らかになったのは他人を蹴落としてでも更に高みへ這い上がろうとする浅ましい本性を見せた人間だけ。
―私は一体、何を見ていたのだろうか。
 憧れさえ抱いたチャン・オクチョンは、自分が勝手に作り上げた幻、偶像にすぎなかったのだろうか。
 王妃はいつにない無力感を感じつつ、愛読書でもある?内訓?を握りしめた。まるで、それだけが最後に縋れるものであるかのように。

 王妃が廃位の宣告を受けた同じ時刻、オクチョンは庭園にいた。池面に浮かぶ四阿が優美な姿を見せている。オクチョンはそこに佇み、池に向かって鯉の餌を投げていた。
 そこに対岸を若い女官が息せき切ってくるのが見えた。ミニョンが可愛がっている娘で、よく気が付いて使えるのだとオクチョンも聞いている。
「何かあったのかしら」
 オクチョンはわずかに首を傾けた。彼女のお腹は豪奢なチマチョゴリの上からも判るほど膨らんでいた。とはいえ、元々、華奢な体格だから、妊娠初期の今は遠目では妊婦だとはまず判らない。
 腹の子は何とか持ち堪えている。当面は流産の危険もなくなり、あまりに寝ているばかりではかえって良くないからと、御医に勧められて散策も始めた。
「イ女官さま〜」
 若い女官は騒々しいと思えるほどミニョンを呼びながら、一心に駆けてくる。
 思えば、我が身にもこの女官くらい若い頃が確かにあったのだ。オクチョンはスンと初めて出逢った頃の自分を思い出し、改めて苦笑いした。
―こんなことを考えるようになっただけ、私も歳を取ったのね。
 ソヒという名の女官は、四阿に辿り着いてもまだ荒い息を吐いていた。
「一体何事だ、騒々しい。禧嬪さまの御前であるぞ」
 いつもの申尚宮のお小言が始まるかとオクチョンが笑いを更に深めたその時、ソヒが急き込んで言った。
「大変です、大変です」
「何が大変だというのだ」
 顔をしかめる申尚宮の傍らで、ミニョンが笑いをかみ殺している。
「尚宮さま、そんなに怒ってばかりいると、額の皺がまた増えてしまいますよ?」
「ええい、教育係のそなたがそのようだから、いつまでも若い者たちが浮ついておるのではないか」
 ますますいきり立つ申尚宮、笑って眺めているミニョン、身を小さくしているソヒ。年格好からも、その打ち解けた信頼し合った様子からも、まるで祖母、母、孫と三世代が集う微笑ましい光景を見るようである。
 いつの日か、世子である我が子も大きくなり、妻を迎える。そうして嫁が子を産めば、孫ができ、こんな風に三世代打ち揃って和やかに笑い合う日が来るのだろうか。
 まだ世子は頑是なく、本当にそのような日が来るのかと信じられないようではあるが、生きている限り、いずれそんな日が来るに違いない。
 オクチョンは穏やかな気持ちで眼前にひろがる池を眺めやった。今朝、今年初めての蓮が開いたと報告があり、こうしてやってきた。
 確かに聞いたとおり、真ん中よりの場所に一つだけ、薄紅色のみずみずしい花が浮かんでいた。
 その初花を眺め入っていたオクチョンは、ミニョンの弾んだ声で我に返った。
「禧嬪さま、やりましたね」
 え、と、オクチョンは思わずミニョンを振り返る。
「ついに王命が下ったそうです」
 申尚宮は裏腹に落ち着いている。オクチョンは眼をまたたかせ、視線をソヒに向けた。
 ソヒはまだ世子の母君に直接物を言えるほどの立場ではない。恐縮するソヒに、傍らのミニョンが囁いた。
「お答えせよ」
 勇気を得たように、ソヒがおずおずと言った。
「中殿さまが廃位と少し前、王命が下ったそうでございます」
「―そう」
 オクチョンは頷き、また視線を一輪だけ咲いた花に向けた。
 奇しくも、オクチョンがその瞬間に感じたのは、寂寥感だった。それは廃位の通達を受けたときの王妃の心境とかなり似たものであったかもしれない。
―私はあなたほど心の清らかな方を他に知りません、中殿さま。
 オクチョンは閉じた瞼の向こうに、かすかな憧れを抱き続けた一人の女性を思い浮かべた。
 何をどうすれば、他人を妬まず、自分の運命を粛々と受け入れて生きてゆけるのか。王妃のたおやかな姿は彼女の生き方ともあいまって、常にオクチョンがいる場所よりはるか高みにあった。
 政略結婚で嫁いできたにも拘わらず、スンの心を?み、今なお愛されている妻。オクチョンという存在がありながらもなお、スンはこの妻をも愛している。
 そんな稀有な女性に憧れて、少しでも近づきたくて、自分は悪に手を染めた。あの女性の立つ場所に自分も立てたら、スンも王妃のことを忘れて自分だけを見つめてくれるのではないかと。
 儚い一抹の期待をかけて、オクチョンは賭けに出た。
 誰かを蹴落とし踏みにじってまで、他人のものを奪いたい。およそ十数年前の自分であれば、考えられない願いだ。
 伏魔殿と呼ばれる後宮の濁った水が自分を変えてしまったのか。いや、そうではないとオクチョンは判っている。
 蓮花はこのように濁った水からでさえ、凜とした気高き花を咲かせる。この浄らかな花と同じように、伏魔殿の水に浸かりながらも変わらず美しく咲いている花を一輪だけ、オクチョンは知っていた。
―私も叶うなら、あなたのように生きたかった。誰を蹴落とさなくても済むように、最初から大好きな男の?一番?になりたかった。
 けれど、それは所詮、自分の都合の良い言い訳なのだろう。
 たとえ、どのような動機があるにせよ、オクチョンは欲しいものを手に入れるために、?鬼?になることに決めたのだから。
 もし、あの女(ひと)が仮に両班家の令嬢でなく、我が身のように生まれながらの賤民だとしたら。あの女は、どうしただろう。
 やはり、花のようなかんばせに消えない笑みを湛え、大勢の人から訳もなく蔑まれる自分の宿命を易々と受け入れたのだろうか。どれだけ努力して心を美しく保とうとしても、ただ身分が低いからという理由だけで、取るに足らない人間のように扱われるこの屈辱に笑って堪えられたのだろうか。
―教えて下さい、中殿さま。
 罪に手を染めてしまったこの身に、あの美しく穢れない花は眩しすぎる。オクチョンはひそやかに、けれど凜として誇らしげに咲く花からそっと眼を逸らした。

 王妃が宮殿を去る日が来た。オクチョンは遠くから、その一部始終を見守った。
 中宮殿を出る間際、王妃の正装を解き、髪に挿していた数々の簪も装身具もすべて置いてゆくのだ。この日を境に、王妃は廃庶人となり、すべての地位、待遇を剥奪される。
 純白のチマチョゴリだけを身に纏っていても、王妃は美しかった。いや、かえって簡素な衣装が王妃の生来の美貌を際立たせていた。
 その日、中宮殿の周囲には聡明で優しい王妃を慕う女官たちの慟哭が絶えず、あまたの女官たちが地面に打ち伏して王妃の悲劇を哀しんだ。
 中宮殿を出た王妃は正門前から輿に乗って実家に戻る手筈だ。オクチョンは正門へと真っすぐに歩く王妃を遠巻きにしていた。丁度、王妃が中宮殿を後にした頃から、雨が降り始め、この薄幸の王妃を天までもが悼んでいるように見えた。