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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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「まあ、それは穏やかではありませんね」
 流石に当の王妃に向かい、オクチョンの語ったとおりを話せるものではない。
 王妃はこんなにもオクチョンの懐妊を歓んでいる。世子のときもそうだったではないか。まるで自分が身籠もったかのように歓び、懐妊が判った日から産着を縫い始めたほどだ。
 今も世子を我が子のように可愛がる姿に、粛宗が胸を熱くしたのは数え切れない。
 妻への罪悪感に苛まれている粛宗の耳を、王妃の声が打った。
「ですが、所詮は埒もない夢でしょう。妊娠初期は精神が不安定になると申しますゆえ、禧嬪が少し神経質になりすぎているのではありませんか」
 その言い方が引っかかり、粛宗は顔を上げて王妃を見た。
「埒もないとは、冷たい言い様だな、中殿」
 王妃の白皙が翳った。
「殿下のお気に触ったのですね、申し訳ございませんでした」
「子を身籠もり、この世に送り出すというのは想像以上に大変な役目だ。女は生命を賭けなければならぬ。現に、前中殿も王女を出産して生命を落としたのだ」
 暗に出産を軽んじていると指摘され、王妃は瞳を潤ませた。
「真にご無礼を致しました。私はそのようなつもりで申し上げたのではないのですが」
「子のないそなたには禧嬪の気持ちは判らないだろう」
 粛宗は言うなり、立ち上がった。
「今日は失礼する」
 王妃はハッとし、慌てて立ち上がった。早くも出てゆこうとしている王の後を慌てて追った。
 いつものように殿舎の前で見送っても、粛宗は一度も振り向かなかった。大抵は一度振り返って、笑顔で手を振るのに。
 王妃は虚しい想いで、遠ざかる王の後ろ姿を見つめていた。
 禧嬪の懐妊を聞いた瞬間、言いようもない気持ちになったのは確かだ。我が身は、いかにしても子が産めない。どれだけ祈っても辛い治療に堪えても、これから先、母となれはしないのだ。その女にとっては辛い宿命も恨まず受け入れているつもりだ。
 禧嬪は自分より年上の、既に女としては盛りを過ぎているといえる歳だ。その禧嬪が昨年、第一子をあげたばかりだというのに、早くももう第二子を身籠もったとあれば、顔色も変わるというものだ。
 もちろん、禧嬪を妬むつもりはない。今、王室には世子一人しかいないのだ。世子が育たぬなどといった不吉なことを考えるわけではないが、跡を継ぐべき男子が一人では心許ないのは確かである。今また禧嬪が身籠もったというのであれば、頼もしいことこの上ない。
 ユンに続いて王子が誕生となれば、王室はいよいよ安泰だ。妬むどころか、粛宗にも告げたように禧嬪の功労は計り知れない。
 その想いは本物だ。けれど、その一方で、禧嬪の懐妊を聞いて、ユンのときのように素直に喜びきれない想いもあった。
―何故、我が身は殿下の御子を授かれなかったのか。
 王妃は暗澹とした気持ちで、殿舎へと重い足を引きずるように戻った。
 疲れた。何やら自分の身体を動かすのさえ、億劫で、身体が重い。ふらつきを感じ、思わずよろめいたところ、傍らから尚宮が支えてくれた。
 禧嬪が世子を懐妊してほどなく、前任の楊尚宮が中宮殿を訪ねてきた禧嬪を階段から突き飛ばすという事件があった。幸いにも禧嬪は流産を免れたものの、粛宗は激怒した。王妃の口添えで処刑だけは免れ、楊尚宮は後宮を追放された。
 義禁府の兵士に引き立てられてゆく時、楊尚宮は抗いつつ捨て台詞を残していった。
―あの女狐がのさばっている限り、中殿さまの居場所はこの後宮にはありません。ご利発な中殿さまはそのことにお気づきでしょうに。
 王妃はほろ苦く微笑した。図らずも、あの不穏な言葉は的中してしまったということか。
 幾ら我が身が妻として内助の功を尽くそうとも、子を産んだ側室には勝てない。結局、男にとって大切なのは、我が子を産んでくれた女なのだ。
「中殿さま、大事ございませんか? 御医を召しましょうか」
 後任の尚宮はまだ三十半ばと若いが、出過ぎたところのない信頼できる者だ。前任の楊尚宮とは対照的である。
「大事ない。少し寝めば治る」 
 王妃は心配顔の尚宮を安心させるように微笑み、彼女に支えられるようにして、ゆっくりと歩き始めた。
翌朝から、王妃は熱を出して寝込んだ。やはり、粛宗から突きつけられた言葉が王妃の心を追い込んだのは疑いようもなかった。
 その想いは他ならぬ粛宗にもあったようで、寝込んで三日目の朝、中宮殿には再び王のお渡りがあった。
「熱が高いと聞いた。大丈夫なのか?」
 三日ぶりに見た王は、常のように穏やかな雰囲気を纏い、心から心配してくれているように見えた。
 王妃は床の上に起き上がり、粛宗に礼を述べた。
「わざわざお越し頂き、ありがとうございます。さりながら、私より今は禧嬪の体調の方が気がかりです。懐妊中の大切な身ですゆえ」
 次の瞬間、王の顔色がスウと引いた。
「私はそなたの身が案じられるゆえ、ここに参ったのだ。それは皮肉か、中殿」
 次いで信じられない言葉が王妃に向けられた。
「貞淑なそなたでも、嫌みを言うことがあるのか」
 王妃は息を呑んだ。
「滅相もございません。殿下がわさわざお運び下さり、私は本当に嬉しいのです。ただ、禧嬪のことは私も気にしておりますから」
「それは本心からの言葉か? 先日、禧嬪の懐妊を告げたときのそなたは、あまり歓んではおらぬように見えた」
 一瞬の動揺を指摘されたわけだ。王妃は瞳を揺らし、うつむいた。
「そのようなこと、あるはずがございません。今、殿下の血を引く御子は世子一人です。せめて王子がもう一人いればと考えております」
 粛宗の眉がつり上がった。
「そなたは世子が無事に育たぬとでも申すか!」
 王妃は狼狽えた。
「殿下、何故、そのように悪しき方へとお考えになるのですか。私は世子を自分の子同様に思うております。あの可愛い子を手放すなど、考えたこともありませんのに」
「知ったことを申すな。子のない中殿に何が判るというのだ」
 あまりの言葉に、王妃は涙を浮かべた。
「殿下、それはあまりなお言葉です。先日も殿下は子のない私には禧嬪の気持ちは判らぬと仰せでした。確かに」
 そこで王妃は言葉を詰まらせ、涙を拭った。
「確かに、私は子を産むどころか、身籠もったことさえありません。それでも、禧嬪の産んだ世子を我が子と思い、これまで慈しんできたつもりです。その私の真心を殿下は足蹴になさるのですね」
「口が過ぎるぞ、中殿」
「いいえ!」
 普段の従順な王妃とは別人のように、彼女は声を張り上げた。
「私は中殿ではありますが、王妃である前に、あなたの妻であり、女です。女がお慕いする殿御の子を産めぬことがとれだけ辛いか、男である殿下にはお解り頂けないとしても仕方ないでしょう。それでも、子のないことで我が身を貶めようとは私は考えておりません」
 暗に、粛宗の言葉が王妃を貶めていると言い切ったのである。 
 最早、粛宗の顔色はなかった。
「よく判った。中殿は私がそなたを貶めていると思われているうようゆえ、嫌われ者は早々に退散するとしよう」
 立ち上がった王を王妃はもう引き止めず、見送ろうともしなかった。
―優しかった殿下がお変わりになってしまった。
 王妃は絹の夜具に顔を埋め、声を殺して泣いた。