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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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「帰り際、殿下がこのようなことをお訊ねになられました」
 申尚宮が先刻の王の言葉をそのまま伝えれば、オクチョンは溜息をついた。
「危ないところだったわね。流石はスンだわ」
 簡単に騙されてくれない。と、続きの科白は口には出さなかった。
 申尚宮も珍しく頬を上気させている。
「ずっと脈診はさせなかったゆえと苦し紛れの言い訳をしておきましたが、あれで殿下が本当に納得されたのかどうか判りかねます」
 オクチョンが言った。
「でも、その場合、申尚宮が言うように応えるしか逃げ道はなかったでしょう。仕方ないわ」
 いちいち小さなことを気にしていたら、キリがない。既に走り出した馬を止めることはできない、目的地に着くまでは。
 オクチョンが潜めた声でミニョンに言った。
「ミニョンには、あのことを頼むわね」
「はい、心得ております。今宵中でも信用できる者を連れて、中宮殿に仕掛けてくるつもりですゆえ」
 ミニョンが力強く頷く。オクチョンはミニョンと申尚宮を交互に見た。
「もう一度、聞くわ。このことが上手くいかなければ、あなたたちも私の運命に巻き込まれることになる。それで本当に良いのね?」
 申尚宮が先に頷いた。
「いつかも申し上げました。既に娘も亡く、年老いた両親にはこの先、暮らしてゆけるだけの財産は託しております。私には後顧の憂いはありません。ゆえに、禧嬪さまと運命を共に致します」
 ミニョンを見つめると、彼女はかすかに笑んだ。
「水くさいじゃないの、オクチョン。あなたは女官時代に自分の身の危険も厭わず、私を助けてくれた。今こそ、そのときの恩を返すときが来たんだもの、心変わりなんてするはずがないでしょう」
 オクチョンは真剣な面持ちでミニョンに言った。
「でも、あなたにはホ内官がいるわ。幸せな結婚をしたあなたを巻き添えにしてはいけないという想いは今でも私にはあるのよ」
 ミニョンもまた真摯に応えた。
「それでは、はっきりと言うわ。もし私に何かあったら、すぐに離縁して欲しいと良人には言ったの。勘の鋭い彼のことだから、恐らく薄々は何かあると気づいたとは思うけど」
 申尚宮がキッとなった。
「ホ内官が殿下にお伝えするということはないのか?」
 ミニョンは笑った。
「大丈夫です。尚宮さま、良人は殿下に心からの忠誠をお誓いしておりますが、同時に私の良人でもあるのです。良人は妻を売り渡すような真似はしません」
 きっぱりと言い切ったミニョンをオクチョンは複雑な想いで眺めた。
「良いものね。良人は妻を庇い、妻は良人をひたすら信じる。あなたが今ほど羨ましいと思ったことはないわ、ミニョン」
 もし我が身とスンがミニョンとホ内官のような関係であれば、オクチョンがこの手を罪に染めることもなかったはずだ。良人は妻だけを見つめ、妻もまた良人だけ見つめる。それができたなら、どれだけ良かったことか。
「そこまで強い絆で結ばれたあなたたちを引き裂くようなことにならなければ良いのだけど」
 申尚宮が力強い声で言った。
「禧嬪さま、もう舟はこぎ出しました。今更、ここで弱気になって良いことは一つもありません。引き返せない道ならば、ひたすら前だけを見て進むのみです」
「そうね、申尚宮の言うとおりだわ」
 オクチョンは頼もしい腹心に励まされ、頷いたのだった。

 オクチョン主従が密談を交わしていた時分、粛宗は中宮殿にいた。
 いつものように王妃が花のような笑顔で出迎えてくれる。いつもはその笑顔に心安らぐのに、今日ばかりは違った。
 王妃の居室に落ち着くと、王妃自らが茶を淹れてくれる。
「実家から珍しいお茶を届けてくれたのです」
 小卓の上には尚宮が運んできた茶の用意やお菓子が載っている。
 粛宗は茶より先に菓子に手を伸ばした。薬菓(ヤツカ)と呼ばれるもので、小麦粉を練り上げて、油で揚げたものだ。粛宗は子どもの頃、これが大の好物だった。
そういえば、と、彼は愛盛りの息子の顔を思い出した。一粒種のユンは生後八ヶ月になった。最近では離乳食も進んで、ユンがオクチョンの許に来ている時、薬菓を食べさせてみたこともある。もちろん小さく割ったのを口に入れてやったのだが、ユンは歓んで、もっともっとと小さな口を開けて、せがんだ。
―あまりに早く甘いものに慣れさせては、ご飯を食べなくなるわ。
 オクチョンが抗議して、粛宗を止めたので、この後、ユンが大泣きして宥めるのに手こずった。
 粛宗は考えた。子どもというのは本当に可愛いものだ。よく子は宝だというけれど、自分が実際に父親になってみて、それが本当なのだと知った。最早、あの小さな息子なしの日々は考えられない。
 そして今、オクチョンの胎内には新たな生命が宿った。まだ男か女かは判らないが、粛宗自身はどちらでも良いと思っていた。既に世継ぎは得た。思えば前王妃の産んだ王女は儚くなってしまったから、この際、女の子でも良い。オクチョンに似た娘ならば、さぞかしく賢く美しく優しい娘になるだろう。
粛宗はよくユンを抱いては、子守歌を歌った。
―吾子や、可愛い吾子や。そなたは、どこから来た。天があなたを私に授けて下された。可愛い私の吾子は宝物、金銀よりも大切な私の宝物。
 朝鮮に古くから伝わる子守歌で、明聖大妃もよく粛宗や姉、妹たちに歌ってくれた。親心というものは貴賤を問わない。この歌は王室でも、その日暮らしの民でも、ごく普通に歌われている。
 そう、ユンは粛宗にとって何よりも大切な宝物だ。それはもちろん、いずれ生まれ出でる次の子も同じだ。
 粛宗は迷いを棄てた。こんなことを言いたくはなかった。しかし、オクチョンの見た悪夢と御医の診立ては不思議と一致している。まさかとは思うけれど、王妃と少し話をする必要はあるだろう。
「中殿、今日は嬉しい知らせを持ってきた」
 唐突に告げられ、王妃の美しい面に微笑が立ち上った。
「まあ、一体、何でございましょう。早く、お聞きしてみたい気持ちになります」
 いかにも聞き上手の王妃らしい。粛宗はひと息に言った。
「禧嬪が懐妊したそうだ」
 刹那、王妃の笑顔が微妙に翳ったのを粛宗は見逃さなかった。いつもなら気づかない程度の変化ではあったが、そのときの彼には既に王妃への疑念がわずかに兆していた。
 だが、自分が身ごもれないと判っている女性が良人からあからさまに側室が懐妊したと伝えられ、浮かない顔を束の間見せたとて、誰が妻を責められよう? その点、王とはいえ男であり、王妃の心中を理解するのは難しかった。
 王妃はすぐに笑顔を浮かべ、明るい声音で言った。
「おめでとうございます、殿下。世子に次いで早くも懐妊とは、禧嬪の功に何か報いてやらねばなりませんが、祝宴といっても今が大切な時期ですし、もう少し禧嬪の体調が落ち着いてからの方がよろしいでしょうね」
 早くも浮き浮きと声を弾ませている王妃を横目に見て、粛宗は嘆息した。
 束の間でも心優しい妻を疑った自分が許せなかった。なので、次の言葉を発したのは、本当になにげなくからだった。
「禧嬪が昨夜、夢を見たそうだ」
「夢をでございますか?」
「ああ。まだ見たこともない赤児を抱いていて、赤児が何者かにさらわれる夢だったとか」