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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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「女が―女が恐ろしい形相で赤ちゃんの首を絞めるの。可哀想な赤ちゃんはか細い声で啼いているけど、やがて、その声は消えてしまって」
 そこまで言い、わっと泣き伏す。スンも蒼白になっていた。
「何と不吉な夢ではないか。オクチョン、もしや、そなたが抱いていたというのは世子か?」
 オクチョンは小さく首を振った。
「いいえ、見たこともない子。でも、私の子どもだというのは、はっきり判った」
 スンが息を呑む。
「そなたの子でありながら、見たこともない子ども―」
 オクチョンは震えながら言った。
「スン、私はきっと狂ってしまったのよ」
「馬鹿な」
 スンが笑い飛ばした。
「夢など誰でも見る」
「いいえ、いいえ」
 オクチョンはスンを縋るような眼で見上げた。
「私は見てはならないものを見てしまった」
「見てはならぬもの?」
 眼を見開くスンに、オクチョンはわななきながら言った。
「赤ちゃんを私から奪った女の顔は、私がよく知っているひとだったわ」
「―」
 スンは言葉を失ったようだ。
「現実に存在する者であったと?」
 オクチョンは頷き、さも恐ろしげに身を竦めた。
「でも、あの方がそんなことはあり得ない。だから、私の気が狂ったとしか思えないのよ」
 スンの声がかすかに震えた。
「そなたが夢で見た女とは誰だ?」
 オクチョンは懸命に首を振った。
「駄目よ、言えない」
 スンが言い聞かせるような口調になった。
「夢の中の子がそなたの子であるというからには、俺の子でもあるだろう。俺も気になるゆえ、聞かせてくれ」
 オクチョンが小さな声で応えた。
「中殿さまよ」
「―っ」
 スンが息を呑む音がオクチョンにまで聞こえた。
「馬鹿な」
 スンは同じ言葉を何度か繰り返した。
 オクチョンが下から注意深く彼の様子を見ているのにも気づかない。
「私も同じよ。あの慈悲深くお優しい方がたとえ夢の中でも無力な赤児に手をかけるなんて、ありえないと思う」
 そこに扉越しに申尚宮の声が聞こえた。
「禧嬪さま、御医が参っています」
 それにはスンが即答した。
「通せ」
 扉が開き、老齢の御医が入ってくる。スンを認め、深々と頭を垂れた。
「早く診てやってくれ」
 国王自ら促され、御医はオクチョンの枕辺に端座し、診察を始めた。
 緊張を孕んだ幾ばくかの後、御医は診察を終え畏まった。スンが待ちかねたように訊ねる。
「いかがであった」
 御医は恭しく頭を垂れた。
「畏れながら、禧嬪さまはご懐妊しておられます。お祝い申し上げます、殿下」
 おお、とも、何とも取れない声がスンから洩れた。
「そうか。オクチョンが身籠もったか」
 スンは喜色満面の笑顔をオクチョンに向けた。
「でかした、オクチョン。世子に引き続き、またも、そなたが俺の子を産んでくれるとは、そなたは本当に俺の宝だな」
 スンは思いがけぬ朗報に、早くも目頭を拭っている。
「それで、禧嬪も腹の子も大事ないのか?」
 そこで御医が素早くオクチョンを見、オクチョンが頷き返した。だが、感極まって、しきりに涙を拭っているスンには見えなかった。
 御医は畏まって言上した。
「畏れながら、申し上げます。殿下、禧嬪さまのお腹の御子さまの発育が思わしくありません」
「何だと? 詳しく申せ」
「脈診を致しましたところ、胎児の脈が酷く弱々しいのです」
「よもや子が育たぬと申すのか?」
 最早、スンの顔は血の気がなかった。それほどまでに御医の言葉が王に衝撃を与えたのだ。
 御医は重々しい口調で言った。
「今のところは何とも言えません。医学を学んだ者が迷信めいたことを言うのは道理に反するかもしれませんが、解せぬことがございます」
 御医は言葉を切り、スンから視線を逸らし、また続けた。
「禧嬪さまご自身のご体調は安定しており、むしろ前回の世子さまご懐妊のときよりも順調なほどです。にも拘わらず、お腹の御子さまがの発育が良くないというのは考えられない仕儀でございます。私めが思うに、何か人智の及ばぬ摩訶不思議な力が働いている、はっきり申せば災いしているとしか思えません」
 スンが唸った。
「その不思議な力が禧嬪の腹の子に厄をなしているというのだな」
「はい」
 御医は相変わらず、王の顔を見ようとしない。スンは難しい表情で考え込んでいた。
 御医の言葉とオクチョンの見た夢を考え合わせ、何かしらの想いを巡らせているのは明かだ。
「オクチョン、そなたは身籠もっていたことに気づいていたのか?」
「―いいえ」
 短い空白の後、オクチョンは短く否定した。
 スンが溜息をついた。
「では、そなたも今日、初めて知ったというのだな」
「はい」
 オクチョンの応えを聞き、スンは更に考えに沈んでいるようである。
「そなたが夢で抱いていたのは世子ではなかったという。であれば、その子こそがやがて生まれ出る子なのであろう」
 スンは深い息を吐き出し、首を振った。
「そして、今日、そなたの懐妊が明らかになった。御医の言葉もある、何か夢と現実が奇妙に符合しているように思えてならぬ」
 オクチョンが当惑したように言った。
「単なる勘違いでありませんか? あのお優しい中殿さまが腹の子を―」
 言いかけ、オクチョンはわざとらしく口許を押さえた。そこで、申し合わせたかのように、御医が口を開いた。
「時に人智を超えた力というのは、医学さえ凌駕致します。何者かが邪悪な力を用いて、禧嬪さまのお腹の御子に仇なそうとしている可能性もなきにしもあらずと拝察つかまつります」
 スンは何も反応を示さなかった。更に何かを思い出したとでもいうように、唐突に立ち上がった。
「少し用を思い出した。また明日、様子を見にくるゆえ、そなたは余計なことで思い煩うことなく養生せよ」
 スンはオクチョンに笑顔を見せ、来たときと同様、慌ただしく帰っていった。
 オクチョンは見送れないので、申尚宮がスンを見送る。いつものように、スンの背後を守るかのようにホ内官の姿もあった。
「申尚宮、そなたは経験者でもあるゆえ訊ねるが、そなたもオクチョンの懐妊には気づかなかったか?」
 申尚宮はいつものように思慮深げな様子で応えた。
「申し訳ございません。お側にいる私どもも今度のお慶びは思いかけぬことにて。迂闊でございました」
「オクチョンが春先からずっと体調を崩していたというのは、懐妊のせいだったのだろう」
 スンが呟き、ふと思いついたように問うた。
「御医に診せていたというに、懐妊が判らなかったのか?」
 そのときだけ、いつも沈着な申尚宮の顔にかすかな動揺が走った。
「経験を積まれた御医であったとしても、判らぬことはございますでしょう。殊に、禧嬪さまはずっと脈診もさせず、問診だけで通されていましたゆえ、治療も滋養のつく煎じ薬を処方されるだけでした」
「脈診もさせなかったのでは、御医も懐妊とは気づかぬか。道理だな」
 スンは納得したように言い、ホ内官を従えて大殿に帰っていった。王の姿が見えなくなったところで、申尚宮は慌てて殿舎に戻った。オクチョンの居室にはミニョンもいて、オクチョンは褥に身を起こしている。
「どうだった?」
 オクチョンの問いに、申尚宮は難しい表情で応える。