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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 それに、あの眼。ファヨンは自分に粛宗が向けた凍るような冷たいまなざしを思い出す。気弱な女なら、あんな眼で見られただけで泣き出すか、失神するに違いないが、ファヨンは生憎と物心つく前から密偵として仕込まれたプロだ。かえって、あんな烈しい眼をする男に惹かれる。
 まさに、ひとめ惚れだった。
―あの男であれば、頼まれずとも近づく甲斐がある。
 ファヨンは自分も気が勝っているとよく仲間内の男たちから言われてきた。そのせいか、ただ大人しいだけの男より、気性の激しい男が好きだ。
 子どもの頃から暴れ馬を乗りこなし、山野を駆け巡り、自分の身体よりはるかに大きな獣を仕留めてきた。ファヨンは狩りが大好きだ。獲物を追いかけ、仕留める瞬間が堪らない。
 容易く手に入れられるものを望みはしない。なかなか懐こうとしない野生の獣を狩り、手なずけるのこそ面白い。
 粛宗は一頭の雄獅子を連想させる。青々とした大草原を駆ける雄々しい獅子。しなやかな肢体と美しい毛並みを持つ、生まれながらの百獣の王。
 しかも、あの若獅子は猛々しい反面、意外な繊細さ、優しさも持ち合わせている。ファヨンは賤民の娘として育ったがゆえに、社会の末端で生きる悲哀が嫌というほど身に染みていた。この朝鮮は身分制度が徹底している。
 殊に高位の両班であればあるほど、ファヨンのような賤民をあたかも道端のゴミを見るような蔑みの眼で見る。両班として生まれた特権を自分が優れていることとはき違え、賤民を見下す者の何と多いことか。
 けれど、あの男は違う。女官でも最下級とされるムスリだと知れても、粛宗はいささかも態度を変えず、具合が悪いと訴えたファヨンを優しく気遣ってくれた。
 あの男、たとえ王でなくとも手に入れたい。
 ファヨンは粛宗の端正な顔を思い描きながら、謎めいた微笑を浮かべた。
 証拠は呆気ないほどに容易く?めそうだ。これで、あの女を高みから突き落としてやれる。
まるでファヨンを見下すように、はるか高みから睥睨していた、いけ好かない女。奇しくもオクチョンがファヨンに生理的な嫌悪感を抱いたのと同様、ファヨンもまたオクチョンを嫌いだった。
 あの女を凛々しい王が片時も離さないほど寵愛しているとは皮肉なものだ。ファヨンはいずれは、あの若く凛々しい王を手に入れたい。そのためにまず、王が熱愛しているという禧嬪張氏を王の側から追い払うとしよう。
 自分を抱き上げた腕のたくましさと感触を改めて思い出し、ファヨンは身体が熱くなった。あの引き締まった身体に組み敷かれ、抱かれるのはさぞかし心地よいに違いない。

―世子邸下の母君、倒れる。
 その報が急遽、廷臣一同を集めての御前会議中にもたらされたのは、五月もそろそろ終わろうとする日だった。
 会議中だった粛宗は滑稽なほど狼狽え、退席していった。いつも温厚ではあるが時に老臣たちが眉をひそめるほど非情な判断もする王である。その王がおかしいくらい動揺している様は、やはり王の寵愛がいまだに禧嬪張氏にあることを何より物語っていた。
 粛宗が執務室にも戻らず就善堂に駆けつけている頃、オクチョンは居室の褥に横たわり、眼を閉じていた。
 ついに運命の牌は投げられた。我が身は一世一代の賭けに出たのだ。この結果が自分にとって吉と出るか凶と出るかは神のみぞ知るだ。
 昨夜は満月であった。ウォルメからひそかに連絡があり、王妃呪詛の祈祷は滞りなく終わったとの文をオクチョンは受け取った。満月だけに昨日は室内でも灯火が必要ないほど明るい月夜であった。
 オクチョンは室内でウォルメからの短い書状に眼を通し、燭台の蝋燭にかざした。文は勢いよく小さな焔を上げながら燃え、やがて跡形もなく消えた。
 それをじいっと見守りながら、思ったのだ。ここまで来たからには、もう情けも良心の欠片もすべて棄てる。この文のように、あの女の存在を消して見せる、と。
 この機会に一挙に息の根を止めてしまいたいという想いはあるが、無理に生命を奪わずとも、とりあえずは宮殿から―あの男の眼の届かないところに追い払えれば良い。
 もう躊躇いはしないといいながら、それでも心のどこかで生命までは奪いたくないと願う自分がいることをオクチョンは知っている。やはり、自分はいまだ非情になり切れていないのかもしれない。
 祈祷が完了した今こそが宿願を果たすべきまたとない好機、と、ウォルメは決起を促していた。それに力を得て、オクチョンは行動を起こしたのである。
 室の扉が細く開き、ミニョンが顔を覗かせた。
「禧嬪さま、ただ今、国王殿下がこちらに向かっておられるとのことです」
「―判ったわ」
 オクチョンは小声で言い、扉はすぐに閉まった。時を経ずして、表で女官の厳かな声が響いた。
「国王殿下がお越しにございます」
「お通しして」
 オクチョンはすかさず応え、待ちかねたように粛宗が入室してきた。
「オクチョン、どうした、何があったのだ!」
 走ってきたものか、粛宗ことスンは額に玉の汗を浮かべていた。
 オクチョンは彼の姿を認めるや、ゆっくりと身を起こした。
「スン、汗だらけだわ」
 すかさず立ち上がると、自分の夜着の袖でスンの額の汗をぬぐった。
「起きて大丈夫なのか?」
 スンが気遣わしげに言うのに、オクチョンは微笑んだ。
「少し立ちくらみがしただけなのに、皆が大げさに騒ぎ立てるのよ」
 オクチョンはスンの汗を甲斐甲斐しく拭き取り、褥に座った。つれらるように、スンも傍らに座り、オクチョンの手を自分の大きな手で包み込む。
「そなたが倒れたと聞いて、飛んできた」
 オクチョンが表情を翳らせる。
「この時間なら、会議中だったでしょうに。私のために大切な重臣方との会議をすっぽかしては駄目よ」
 スンが真顔で言った。
「俺には政より、オクチョンの方が大切だ。どうせ爺ィどもは自分たちの利になるようなことばりしか言わぬ」
「スンったら」
 オクチョンは笑い、途端にまた浮かない顔になった。
「どうした? やはり具合が悪いのだろう。無理をせず横になれ」
 スンがいささか過保護すぎるほど心配し、オクチョンはまた布団に戻った。
 横になるやいなや、オクチョンは両手で顔を覆った。突如してすすり泣き始めた寵姫に、スンは眼を?いた。
「何を泣く?」
「スン、怖いの」
「怖い、とは?」
 オクチョンの訴えに、オクチョンは黙って泣き続ける。スンが焦れたように言った。
「オクチョン、泣いているだけでは判らぬ。そなたは今や世子の母であり、嬪の地位にある。そのそなたを脅かす者がこの国のどこにいるというのだ?」
 オクチョンは泣きながら言った。
「夢を見たのよ」
「夢?」
 スンは訳が判らないといった風に訊き返した。オクチョンは涙を流しつつ言った。
「昨夜、とても怖い夢を見たわ」
「どんな怖い夢を見た?」
 勢い込むスンに、オクチョンはさも恐ろしげに声を震わせる。
「私は赤ちゃんを抱いていて、その子が連れてゆかれる。それから」
 言いよどみ、唇をわななかせるオクチョンをスンが固唾を呑んで見つめる。
「それから、どうなった?」