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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 その日は就善堂を出る頃から、雨が降り始めた。軽い風邪気味の申尚宮は殿舎に残し、オクチョンはミニョンと二人で傘を差してここに来たのだ。
 オクチョンは傘を傾け、そっと腰を屈め足下の牡丹に顔を寄せた。
「綺麗だわ」
 雨といっても、散策に難儀するほどではない。しとしとと降る春の雨を浴びて、黄色の大輪の花びらの一枚一枚が水滴を戴いている。
 春の雨は冬と異なり、水温むという言葉にふさわしく、心まで冷えるようなものではない。けれど、この日の雨はオクチョンの心の芯まで凍らせるようであった。
「花が泣いているようね」
「禧嬪さま―」
 ミニョンの声が翳った。
「気にしないで。王さまだって、男ですもの。若く美しい女に眼がいくのは当たり前のことよ」
 そう、王も所詮はただの男にすぎない。そんなことは、とうの昔に分かり切っていたではないか。愛する男の寵愛を失った瞬間から、オクチョンの心は血の涙を流し、春の温かな雨にでさえ凍り付く。
 今更、新しい女が一人増えたところで、何も現状は変わらない。オクチョンは自らに言い聞かせるように心で呟き、背筋を伸ばした。
「そろそろ帰りましょうか、申尚宮が心配しているかもしれないわ」
 どんな女が加わろうと、あの男(ひと)は誰にも渡さないのだから。最終的に彼の隣に立つのは、この私よ。
 占い師を呼び寄せたときのあの決意はいささかも揺るぎはしない。
 その後、ミニョンは良人のホ内官に更に詳しい事情を訊ねた。当然、ホ内官は始終粛宗の側に控えているため、突如として後宮入りした特別尚宮と王の?馴れ初め?を知る唯一の人物であった。
 あの夜、お忍びで宮外に出ようとしていた粛宗は、けして一人きりだったわけではない。まだ十代の頃、粛宗は大殿内官こと?爺や?が止めるのもきかず、護衛も連れず一人で市井に出かけていた。が、今は流石に一国、この国の民をその背に背負っている自覚はある。
 我が身に何かあった時、この朝鮮が根底から揺らぐのだけは避けたい。まだ世子は、あまりにも幼すぎる。その夜もホ内官が遠くから王の護衛を務めていた。
 ホ内官は妻にでさえ、真相を話そうとはしなかった。やはり、王の側近中の側近であるだけに、妻にも粛宗の行動の逐一を洩らすことはなかったのである。その点、ホ内官は、どこまでも職務に忠実であり、王の信頼をいささかも裏切らなかった。
 しかし―。仮に彼が粛宗とチェ・ムスリとの関係の真実を妻に打ち明けていたとしたら、この先の展開もかなり変わっていただろう。オクチョンは従って、最後まで粛宗とこの新しい特別尚宮との間に何もなかったことを知らずにいたのだ。

 こうして、粛宗は意に沿わず新しい側室を持つに至った。これで王の後宮には王妃、禧嬪張氏の他に新たに崔尚宮がひしめくことになる。
 その新しい側室が加わって日も浅いある日、大殿の粛宗の執務室を訪ねた者がいた。
「左相(チャサン)、しばらく療養していたというが、もう具合は良いのか?」
 左議政ク・ソッキは既に老齢といって良い人物だが、西人(ソイン)派の筆頭官僚であり左議政の要職にある。
 当時、朝廷は?西人派?と?南人(ナミン)派?の二大勢力に分断され、二つが烈しい攻防を繰り広げていた。西人派の推戴するのが正室仁顕王妃であり、南人派が推すのが世子の生母、禧嬪張氏である。王妃、オクチョン共にあい争う気は毛頭ないにも拘わらず、それぞれの党派がこの粛宗の妻二人を旗印に戴いたことで、自然に二人が対立しているように誤解されてきた面もある。
 オクチョンの産んだユンを王世子に冊封するに際しても、西人派と南人派は烈しい意見の衝突を繰り返した。しかし、肝心の王妃がユンの立太子に全面的に賛成であったため、西人派はユンの世子冊封を阻止することはできなかった。
 粛宗自身は王として、朝廷での臣下たちの力が強まる一方なのは困った事態だと受け止めている。この国は連綿と王制が敷かれてきた。清国の冊封国であるとはいえ、れきとした独立国であり、その頂点に立つのは当然ながら王である。
 朝廷の西人派と南人派の派閥争いを王が高みの見物と決め込める中は良いが、けして巻き込まれてはならないと常に慎重に動向を見守っている。そのためには、どちらかに比重が掛かりすぎてもならない。つまり、二つの派閥が拮抗した力を保つのが理想なのだ。
 臣下の意見に耳を傾けるのは、王として大切なことだ。粛宗は専制君主になるつもりはなかった。しかし、臣下たちの傀儡、操り人形、形だけの王になるつもりはもっとない。
 朝廷つまり臣下が力を持ち過ぎ、南人か西人かのどちらかの一方的な専横が目に余ったときは、王だけが持つ特権を例外的に行使する必要もあるだろうと覚悟はしていた。
 ?換局?は本来、政局を意味する。朝鮮王朝の国王のみが持つ特権であり、王が朝廷の人事を一挙に刷新し、政治情勢を覆すことができるというものだ。いわゆる政局の転換である。実のところ、歴代王の中にもその特権を使った王は一度としてない。
 だが、二つの党派が自分たちの利害ばかりを主張して王権を蔑ろにし、私利私欲にまみれた醜い争いがこれ以上激化すれば、この国の基盤そのものが危うくなる。それを阻止するためには、かつてどの王も行わなかった換局を断行するのもやむなしというところだ。
「お陰さまにて、久方ぶりに屋敷でゆるりと過ごさせて戴き、身も心も生き返った心地にございます」
 ここひと月ばかり朝廷にも姿を見せなかったク・ソッキだが、見たところ顔色も良く、健康状態に問題はなさそうである。
 そういえば、と、粛宗は破顔した。
「最近、左相の華やかな噂がまた聞こえてきたが、療養というのは名目で真実は新しく手に入れた花と戯れていたのではないのか?」
 この男、年甲斐もなく色めいた噂が後を絶たない。つい最近も娘どころか孫ほども年の違う若い妓生を落籍して手活けの花としたという噂で朝廷は持ちきりになった。
「何でも年若い妓生を側室として迎え入れ、あまつさえ子を儲けたと聞いたぞ」
 粛宗が笑いながら言えば、ソッキは臆面もなく真顔で応えた。
「老いらくの恋というのも、なかなか良いものでございますぞ。殿下もまだまだお若いのですから、もっと後宮に多くの花をお持ちになればよろしいと、それがしなどは存じ上げますがな」
「朕のことはこの際、どうでも良い」
 粛宗が笑いながら言ったその時、ソッキの顔に狡猾そうな表情がよぎった。
「畏れながら殿下におかれましても、私のおらぬ間に新しい花を摘まれたと聞き及びおります」
「―朕の話は良いと申したであろう」
 憮然として言った王に、ソッキはニヤリと口の端を持ち上げた。
「今日、伺ったのは他でもありません、それがしが迎えたのは側室だけではありませんで、実はこの度、養女を迎えました。この者を殿下に是非とも、ご紹介致しにまかりこしました」
 ソッキが咳払いすると、両開きの扉が開いた。若い女人が静々と入室し、ソッキの少し背後に立つ。粛宗は何気なく視線をそちらに向け、愕きの表情を隠せなかった。
 視線の先に佇んでいたのは、チェ・ファヨンであった。
「何故、そなたがここにいる?」
 鋭くも聞こえる声で誰何する。左議政が笑みを含んだ声で続けた。