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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 月のものが来た日、王妃は泣いてスンに謝った。気丈で泣いたところを見たことがない女が涙を流していた。スンはすすり泣く王妃を抱きしめ、優しく言ったのだ。
―気に病むことはない。そなたが重い病でないと判っただけ、私には幸いだった。
 その言葉で、王妃は余計に泣いた。
 王妃は日ごとに健康を回復しつつある今、今夜こそはオクチョンと二人きりの時間を過ごしたいと勇んで出てきたのだ。この人気のない道は回り道にはなるが、人目に立たずに就善堂に行くにも脱出するにも最適の経路なのだ。これからオクチョンを訪ねてゆくつもりだった。
 次にここを通るときは、オクチョンと一緒のはずだ。これから想い人と過ごす愉しい時間を想像しただけで、少年の頃に若返ったように胸が高鳴った。ここに来るまでの道すがら、我ながら、現金なものだと苦笑していたのだ。
 先触れもなく唐突に現れたスンを見て、オクチョンがさぞ愕くだろうと、そのときの表情まで思い浮かべていたというのに。だが、腹痛で動けないという女官を無視できるほど、スンは男気がない男ではないつもりだ。
 まあ、良い。夜はまだ始まったばかりだ。女官を殿舎まで送り届けてから、すぐに就善堂を訪ねれば問題はないだろう。
 スンは優しい声音で言った。
「そなたの殿舎はどこだ? 私が送り届けよう」
「ご親切に、ありがとうございます」
 か細い声が応じた。スンは断ってから、女官を逞しい腕で抱き上げた。幸いなことに、女官の暮らす殿舎は、そこからほど近い場所に建っていた。その殿舎は雑仕女(ぞうしめ)たちが起居する建物のはずだ。どうやら、この娘は下級女官(ムスリ)のようである。
 ムスリたちが暮らす殿舎はしんと静まり返っていた。長い廊下には似たような作りの室が並んでいるが、そもそも灯りのついている室さえない。
「皆、夜が早いのです。私たちは上級女官の宮女さまたちと違って一日、働き通しだから」
 娘に与えられた室は手狭ではあったが、几帳面な性格らしく、きちんと整えられていた。
 片隅に小さな箪笥があり、夜具が畳まれている。スンは勝手に布団を敷き、女官をそこにそっと降ろした。
「よく養生するのだぞ。上役の尚宮に申し出て医官に診て貰いなさい」
 スンは優しく言い、立ち上がった。刹那、スンのパジの裾を娘がギュッと握りしめた。
「待って」
 スンが眼を見開き、娘を見下ろした。その時、彼は初めて娘の顔をまともに見ることになった。綺麗な女だとは思っていたが、これほどとは思わなかった。
 夏の陽を浴びて咲き誇る向日葵のような、若く健やかな美貌だ。しばし息を呑んで見つめるスンに、娘は弱々しく微笑みかけた。
「何だか痛みがぶり返してきたみたいなのです。心細いので、もう少し側に居ていただけませんか」
 そのあまりにも儚げな風情に、スンの心が揺らいだ。今夜はオクチョンと共に花見に出かける愉しい一夜になるはずだった。この分では、もしかしたら、その愉しい計画は延期になるかもしれない。
 けれど、心優しいオクチョンなら、事の次第を話せば判ってくれるに違いない。
 娘の様子は見たところ、そこまで悪くはなさそうで、スンはそれから幾度となく帰りかけたのだが、その度に娘に引き止められた。
 しまいには強引に室を出ようとして、泣かれさえしたのだ。スンは女の涙には弱かった。ましてや、腹痛が治まらぬから心細いと訴えて泣かれたら、到底出てゆけるものではない。
 結局、スンは白々と夜が明けるまで娘の居室にいることになってしまった。
 夜明けが近づいていることを知り、流石に慌てた。いかに何でも、これ以上、ここにはとどまれない。国王が女官の部屋で夜を明かした―、そのことが対外的に大きな意味をもつくらいのことはスンだとて十分理解しているつもりだ。
「私はもう行かねばならない。身体には十分気を付けるのだぞ?」
 それでも優しい言葉をかけ、彼は娘の部屋を出ようと扉に手をかけた。
「お優しい旦那さま、せめてお名前をお聞かせて下さいませ」
 背後から娘の声が追いかけてきて、スンは首だけねじ曲げるようにして振り返った。
「恰好をつけるわけではないが、名乗るような者ではない」
「私は崔華蓉(チェ・ファヨン)と申します。旦那さま」
「チェ・ファヨン。花のように美しいそなたには似合っている、良い名だ」
 スンは小さく頷き、笑った。
「ではな、ファヨン」
 その一夜が後にスン自身を極限まで追い詰めることになるとは、彼はまだ考えてもいなかった。

 翌日の昼下がり、粛宗が午前中の執務を終えて大殿から出て向かったのは就善堂であった。昨夜は思わぬ出来事があり、花見は果たせなかった。だが、花はまだ残っているはずだし、今日こそオクチョンを花見に誘おうと、スンは愉しい計画に気もそぞろであった。
 いつものように背後には信頼する腕利きのホ内官が影のようにピタリと寄り添っている。就善堂の近くまで歩いてきたその時、後ろから呼び声が聞こえた。
「殿下、殿下」
 粛宗が信頼する?婆や?こと大殿尚宮である。かつては王の保母尚宮を務めた女性だ。
「婆や、どうした?」
 臣下にというよりは母親か祖母に問うような親しげな物言いだ。
「今、後宮では大変な騒ぎになっております」
「騒ぎ?」
 粛宗は小首を傾げた。
「一体、何がどうして騒ぎなど起こるのだ」
 現在、後宮で彼の寵愛を受けるのは王妃とオクチョンの二人だけであり、二人とも立場をわきまえた賢い女たちである。二人の間で争いが起きるとは考えがたい。
 大殿尚宮が言いにくそうに口ごもる。
「それが―」
 彼女はむしろ気の毒そうに我が育てし王に言った。
「騒ぎが起きているのはムスリたちのいる殿舎なのです。その中の一人が昨夜、男と通じたとかで、ただ今、監察尚宮の尋問を受けているところです」
「ムスリ?」
 粛宗は更に首を傾げかけ、はたと閃いた。
「まさか、その者の名はチェ・ファヨンと申すのか?」
 大殿尚宮の顔に驚愕が走った。
「やはり、あの者の申すことは真実だったのでしょうか、殿下」
 ムスリたちの殿舎に行く道中、粛宗は大殿尚宮から大方の事情は聞いた。本来、後宮でも最下級のムスリが風紀を乱したからといって、それが国王の耳に届くほどの騒ぎになることはない。
 しかし、今回、それが粛宗にまで報告がいったのは、他ならぬそのムスリ自身があろうことか
―私の部屋で一晩過ごされたのは国王さまです。
 と、大胆にも宣言したからだ。
 当初、ムスリを監督する女官は一笑に付したものの、仮にも?国王さま?を持ち出したからにはと更に上の尚宮に報告し、尚宮から監察尚宮に話がいった。
 そのため、監察尚宮が直々にムスリに立ち合い尋問するという後宮でも未曾有の事態になったという。
 粛宗は内心、疑問に思った。何故、チェ・ファヨンというムスリは我が身が国王であると知っていたのか? 幾ら思い返してみても、今朝、あの者の室を出る間際、名乗ったのはあちら側だけで、粛宗は身分を明かした憶えはない。
 どうしても、その一点が気に掛かる。だが、大殿尚宮の話では、ファヨンはこれから後宮の規律に則って裁かれ、重い罪に問われるだろうと語った。