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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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―そなたの母を殺したのは、前王妃にゆかりの者だ。その者は今の王妃も娘のように可愛がっていた。王妃が亡き者になれば、ソルメも幾ばくかは浮かばれようぞ。
 流石に誰がとは言わねど、ウォルメは母を殺した?王妃にゆかりの者?が誰か察したらしい。若い占い師は、大人しげな外見に似合わず、眼(まなこ)には勝ち気な光が閃いていた。
 前王妃呪詛はまったくの濡れ衣であったが、今回はオクチョン自身が自らの明確な意思で王妃呪詛を画策した。最早、言い逃れはできないところまできていた。
―スン、もうすぐよ。待っていて。私は必ずあなたをこの手に取り戻し、あなたの隣に立ってみせる。
 オクチョンは一旦眼を瞑り、開いた。深呼吸して、申尚宮を真正面から見据える。
「そなたがついてきてくれるというなら、心強い」
 たったそれだけで、主従の心は通じ合った。申尚宮は恭しく手をついた。
「何なりとお申しつけ下さいませ」
 思えば、妻のいるスンの側で生きてゆくと決めた時、自分は修羅の橋を渡ったのだと思ったけれど、何と、あのときの自分は甘かったことか! 大勢の女たちと愛する男を競うのは修羅ではない。
 これから自分がまさに歩もうとしている道そのものが修羅なのだ。自分は今、修羅の橋を渡ろうとしている。二度と引き返せないこの道。
 オクチョンは関節が浮かび上がるほど白く、膝の上の両手を握り合わせた。
 この道の先で降る血は己れのものか。
 果たして、王妃のものか。
 一瞬、脳裡に花のような、たおやな王妃の笑顔が浮かび上がり消えていった。こんな関係でなければ、仲良くできただろう。先の王妃と異なり、オクチョンを最初から暖かい眼で見つめ、対等に接してくれた数少ない人の一人だった。
 その王妃を自分は陥れようとしている。あの夢の中で降ってきた血は、いずれ自分の手を濡らす王妃の血の涙なのかもしれない。そうやって、この先、何人の血にこの手を染めて我が身は生きていくのだろう。
 それでも構いはしない。大好きな男の側にいられ、あの男の心をずっと独り占めできるのであれば、どれだけの犠牲も厭わない。これから先、たとえ幾人もの新しい女が現れようが、私はこの手をその女たちの血に染めてみせる。
 だから、お願い、私だけを見て。
 オクチョンの心の叫びが粛宗に届いたのかどうか。そのときのオクチョンが知る由もなかった。
  
 オクチョンが壮絶な決意をしてさほども経たないある日の夜、粛宗ことスンは意気揚々と宮殿内を歩いていた。ここは広大な王城内では西の方面に当たり、昼間でさえ人気がない場所である。定時に巡回の兵士が物々しく見回る他には寄りつく人もいない。
 この辺りは何代か前の王の御世、政変の犠牲になった官吏が暗殺された場所だといわれている。宮殿には、こういった亡霊が拘わる噂話は枚挙に暇がない。いわくつきの場所に好んで近づきたがる者はいないだろう。
 スン自身、あまり好みではない場所だ。しかしながら、今夜に限っては人気のないことはとてもありがたい。というより、彼が宮殿から脱出するときは、いつもこの経路を使うのはオクチョンと出逢った十数年前から変わらない。
 今夜、スンはオクチョンを花見に連れてゆこうと計画している。宮殿の庭園の桜はすべて散ってしまったし、巷でも同じことだろう。だが、彼は一つだけ心当たりがあった。恐らく、あの場所なら花はまだ咲いているはずだ。
 花見、二人の想い出の場所ではないけれど、遅咲きの桜があるところを知っている。
 夜桜と聞いただけで、彼の胸は甘い疼きに満たされる。それは何とも甘美で、幸せな記憶だった。あの頃、オクチョンとスンはまだ二人とも十代の多感な時期だった。
 あの夜、月明かりを浴びたオクチョンは殊の外美しかった。清かな月光を受けた黒曜石の瞳が輝き、スンはあの夜、もうオクチョンを手放せないと思うほど惹かれたのだ。
 今夜もまた夜桜を見せたら、初めて出逢った頃のように瞳を輝かせて
―凄いわ、素敵ね、スン。
 と、嬉しそうな顔を見せてくれるだろうか。そう思い、スンの心は沈んだ。
 あの頃のオクチョンは、よく笑顔を見せた。弾けるような笑顔は眩しく、夏の太陽のように思えた。だが、後宮に入ってから、いや正しくは彼の妃になってからというもの、彼女は段々笑わなくなった。
―俺が悪いんだ。
 オクチョンの幸福を思うなら、この想いはきっぱりと断ち切った方が良かった。そう、あの二人で夜桜を見た幸せな夜を一生の宝として、あの場所で別れた方が良かったのだ。
 けれど、彼は自分の我が儘を通した。もちろん、求婚を断られたときは潔く引くつもりだったのだが、宮殿で再会した時、どうしてもあの娘が欲しくなり、王であるという素性を隠して誘惑し手に入れた。
 オクチョンとの間にも十年余りの年月が流れた。色々とあったものの、今や彼女は嬪となり、彼の妻であり、ましてやユンという可愛い世子までいる。
 これからは夫婦水入らずの時間をもっと増やし、ここのところ少し距離を感じている彼女との仲を昔のように戻したいと考えている。
 お忍びで宮外に出るつもりだから、王の正装ではなく、ごく普通のパジを着ている。とはいえ、スンのいでたちは群青色の仕立ての良いもので、どう見ても上流両班といった雰囲気だ。だが、スンの顔を知る者でなければ、粛宗その人だとは判らないだろう。
「オクチョン、オクチョン」
 スンの足取りは軽かった。恋人の名を歌うように呟きながら、石畳を歩いていたその時。
 前方に何か大きな固まりが障害物のように立ちはだかっているのが映じた。闇が凝(こご)って人の形を取ったようにも見える。
「―っ」
 危うく声を上げるところであった。
 みっともない話だが、スンは怪談が大の苦手だ。苦手なのは子どもの頃からで、よく姉たちから暗い部屋で怖い話を聞かされ、泣いては母大妃の腕に飛び込んでいた。到底、王いや男の沽券にかかわるゆえ、オクチョンにもそのことは話していない。
 スンはよくよく眼をこらした。どうやら彼のゆく手を塞ぐのは亡霊でも魔物でもなく、正真正銘の人間らしい。急ぎ足で近づくと、確かに漆黒の闇の底で、人がうずくまっている。
「どうした?」
 彼自身も地面に片膝付いて、うずくまる人影に問いかけた。
「お腹が―痛くて」
 消え入るような声が辛うじて聞こえた。まだ若い女の声だ。スンは続けて声をかけた。
「それは良くない。一人で殿舎まで戻れるか?」
 闇に慣れた彼の眼に映じたのは、華奢な一人の女だった。女官のお仕着せを纏っている。
 彼の問いに、若い女官は小さく首を振った。
「無理です。お腹が物凄く痛むので、歩けません」
 スンは唸った。ここ半月ほど心配であった王妃の容態も落ち着いている。懐妊の可能性があると聞き、期待しなかったといえば嘘にはなるが、元々、王妃が妊娠しにくい体質だとは知っていた。懐妊ではなかったと判明し、落胆はしたけれど、かえってこれで良かったのだとも思った。
 スンには既に世子に立てた息子がいる。今になって王妃から王子が生まれたとしたら、やはり嫡出子でないユンの立場は脆く、王妃の産む王子とユンの間に王位を巡って無用な諍いを招くことになりかねない。
―申し訳ございませんでした。