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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 それは、いつものオクチョンらしからぬ高圧的な物言いであった。しかし、そのいかにも貴人女性らしい態度に、若い占い師は圧倒されてしまったようだ。
「はい」
 若い占い師は立ち上がり、一礼すると、また来たときと同じようにどこかおどおどした様子で室を出ていった。
 占い師が出ていった後、ミニョンが急かされたように訊ねてきた。
「禧嬪さま、あの者に何を仰せになったのですか」
 オクチョンは薄い微笑を湛え、ミニョンを意味ありげに見つめた。
「見かけによらず、あの者の能力(ちから)は確かなそうよ。凄腕と評判の母親をはるかに凌ぐ霊力を持つとか」
 ミニョンがハッとたじろいだ。
「禧嬪さまは、そこまで調べられていたのですね」
「そなたと申尚宮には及ばないけれど、この宮にはまだまだ私のために動いてくれる者がいるということよ」
「それはもちろん承知しておりますが」
 ミニョンは言い、口ごもった。しばらく躊躇ってから、迷いを振り切るようにひと息に言った。
「あの者を使って、一体何をなさるおつもりで?」
 オクチョンが珊瑚色の口の端を心もち引き上げた。
「多分、あなたの考えていることは当たっているわ」
「そんな―、まさか」
 ミニョンの顔が蒼白になり、震えだした。
「いけません、禧嬪さま。万が一、事が露見すれば、大変なことになります」
 オクチョンの美しい面から笑みがかき消えた。
「ミニョン。私は殿下をお慕いしているの。それがすべての理由よ」
「ですが」
 なおも言い募ろうとするミニョンに覆い被せるようにオクチョンは言った。
「あの方の眼に映る女は私だけでなければならない。他の誰にも殿下は渡さない」
 ミニョンが何か言おうとして口をうごめかし、クッと嗚咽を洩らした。
「オクチョン、これは女官ではなく、友からの忠告だと思って聞いて。この計画が上手くいけば良い。でも、失敗したら、あの占い師だけでなく、あなたの生命も危ういことは承知しているのね?」
 オクチョンはミニョンの言いたいことを正しく理解した。
 謀略が明るみになる前に、オクチョンの身に迫る危険―、それはあの若い占い師が呪詛に失敗したときであった。相手を呪った場合、呪詛が失敗に終われば、その呪いは何倍にもなって呪った方に返ってくる。先刻、ウォルメ自身も語っていたではないか。ミニョンは、それを指摘しているのだ。
 オクチョンは微笑んだ。
「もちろん、承知しているわ」
 ミニョンが眼を潤ませた。
「教えて、オクチョン。あの優しくて心の綺麗だったあなたがどうして、こんな風になってしまったの?」
 ミニョンがよく知るオクチョンは、自分のことなどそっちのけで他人の心配ばかりするお人好しだった。虐められていたミニョンを庇い、オクチョン自身が危機に陥ったことが何度もある。だからこそ、オクチョンを生涯の主と思い定め、ここまで歩いてきたのだ。
「―」
 オクチョンは、薄い微笑を返したのみで、その問いには最後まで応えなかった。
 夕刻になって、申尚宮が実家から戻ってきた。オクチョンは心付けを弾んでやり、申尚宮の亡くなった一人娘の墓参りをしてくるようにと伝えていたため、帰りも遅くなったのだ。
 戻って真っ先に挨拶にきた申尚宮に、オクチョンは訊ねた。
「お父さまやお母さまは元気にされていた?」
 申尚宮の両親は七十近いが、いまだ現在である。申尚宮はオクチョンからの贈り物を山のように携えて、この日、自身の実家にも顔を見せ久しぶりに年老いた両親と過ごしてきたのだった。
「お陰さまで息災にしておりました」
 申尚宮の顔色は冴えなかった。その様子から、既に彼女がミニョンから留守中の報告を受けているのだとは知れた。
「禧嬪さま、私は、そのように頼りないものにございますか?」
 いきなり言われ、オクチョンは眼を見開く。少しく後、彼女は溜息をついた。
「もうミニョンから聞いて、知っているのでしょう」
 申尚宮は何も言わなかった。オクチョンは静かな声音で続けた。
「そなたがこんな私についてこられないというなら、暇を取っても良いのよ」
「いいえ」
 小さいけれど、きっぱりと申尚宮は否定した。
「私は、どこまでも禧嬪さまについてゆきます。禧嬪さまは憶えておいでですか? いつか前中殿さまに口答えした私が罰として鞭打たれた時、禧嬪さまおん自ら看病して下さったことを」
「ええ、憶えているわ」
 忘れようとしても、忘れられるものではない。中宮殿に挨拶に出向いたオクチョン主従は、前王妃付きの女官から糞尿をかけられのだ。 
「あの時、看病して下った禧嬪さまに私は申し上げました。亡くした娘は守れなかったけれど、禧嬪さまは生命に代えてもお守りします。あのときから、私の想いはいささかも変わりません」
 オクチョンは微笑んだ。
「あなたの気持ちは嬉しいの、申尚宮。でも、私がこれからしようとしているのは、明らかに人の道に外れることよ。それでも、あなたは私についてきてくれるの?」
 その瞬間だけ、申尚宮の小さな面には、はっきりと深い哀しみが浮かんだ。
「禧嬪さま、それがこの伏魔殿の恐ろしきところです。私は正直申し上げて、むしろ禧嬪さまがよくぞこの長い年月、堪えられたと思うているのです。どんな清廉な心の持ち主でも闇の色に染めてしまう魔力を秘めているのが後宮。もう、これからは誰にも何者にも遠慮なさる必要はありません。禧嬪さまは世子邸下のご生母であり、嬪でおわします。あなたさまが望んではならないものなど、この世にはありません」
 意外にも、ミニョンより申尚宮の方がオクチョンの真意をくみ取るのは早かった。それはやはり、後宮で生きてきた年月において、申尚宮が格段に長く、後宮という場所がどんなものであるかをより深く理解していたからに相違ない。
 オクチョンは改めて思うのだった。
 十三年前、ミニョンを庇って朋輩女官の反感を買い、騙されて池に突き落とされるという事件があった。ミニョンの良人ホ内官に助けられ、九死に一生を得たオクチョンは、数日にわたって生死の淵をさまよったのだ。
 その最中、恐ろしい夢を見た。見たこともないのに既視感がある殿舎の前に立ち、階を昇り中へ入ろうとした途端、大量の血が天から降ってきて―。
 あの時、夢の中でオクチョンの隣にはミニョンがいた。オクチョンはミニョンが止めるのもきかず、何ものかに導かれるように階段を上った。
 この就善堂はスンがオクチョンのために建ててくれた。国王の寵姫にふさわしい壮麗な御殿だ。就善堂が新築なって晴れて引っ越してきた日、オクチョンは愕然とした。
 初めて見るこの就善堂こそが、あの悪夢に現れた殿舎そのものだったからだ。そして今。
 自分はミニョンが止めるのもきかず、人ならぬ道に踏み入ろうとしている。まさに、恐ろしいほど夢と一致しているではないか。あの夢の結末からすれば、我が身の進む道の先に血を見ることは間違いない。
 それが果たしてオクチョン自身の血なのか、それとも誰か他の者の血なのか。今のところ、定かではない。だが、たとえ誰の血であろうとも、もう後戻りはできはしない。
 今日、オクチョンが占い師ウォルメに託したのは、王妃の生年月日だった。彼女が依頼したのは、王妃の呪詛であった。