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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 が、ユンの生みの母であるオクチョンがユンを抱いて訪ねても、大妃殿の扉が開くことはない。オクチョンは心得た女だから、大妃が自分を嫌っているのは承知で、ユンを中宮殿に連れてゆき、そこから王妃がユンを抱いて大妃殿に顔見せに連れてゆくのだ。
 このままではオクチョンがあまりに可哀想だとも思う。母はユンをオクチョンから引き離し、王妃を嫡母として中宮殿で育てるようにと主張しているが、まだ生後数ヶ月の赤児を生母と引き離す残酷なことができようはずもない。王妃もいずれ引き取ることになるとしても、せめてユンが物心つくまではオクチョンの許で育てさせてやりたいと話している。
 粛宗はその朝、何度めになるか判らない溜息を零した。―その時。
 室外から遠慮がちな声が響いた。
「殿下、大妃殿より火急の遣いが参っています」
 そこで粛宗は書状から顔を上げて、ホ内官と顔を見合わせた。ホ内官が頷き、扉を開ける。廊下に出て彼はしばらく低い声でやり取りしていた。
 急に母の姿が見えなくなったあの夢。まだ一日が始まってまもないこの時刻に突然の大妃殿からの知らせ。どれもがあまり良い兆候だとは思えない。
 粛宗の中の焦りにも似た想いがますます強まった。ホ内官が戻るのも待てず、彼は椅子から立ち上がった。その時、扉が開き、ホ内官が戻った。
「殿下、大妃さまがお倒れになったとのことです」
「―っ」
 ホ内官はまだ何か言っている。しかし、粛宗はもう聞いてはおらず、そのまま執務室を飛び出していった。

 寝室の豪奢な布団に横たわった大妃は、随分と小さく見えた。粛宗の記憶にある母は、到底四十路を過ぎたようには見えない、若々しい美貌を誇っていた。だが、今、その美貌の面影は依然として残っているものの、頬は削げて骨格が露わになり、顔色は紙のように白い。
 彼はくずおれるように母の枕頭に座った。
―大妃さまが発作を起こされた。
 というのは、大妃殿に仕える者たちにとって別段珍しくはない。何故なら、大妃はまだ若い頃からヒステリーの発作を起こすのは再々だったからだ。また、母の言うなりにならない息子を大人しくさせるためにも?発作?は頻繁に起こった。
 だが、今度ばかりは、この発作はいつもとは違っていた。
 昏々と眠る大妃の傍らには、母の信頼厚い古参の尚宮の姿が見える。粛宗は改めて尚宮に問うた。
「御医は、いかが申している?」
 母が実家にいる頃から、側近く仕えたこの尚宮はもう四十年近く母の側にいる。尚宮は自分自身も今にも倒れそうなほど疲弊しているように見えた。
「頭に血が上られたのが原因だのことにございます」
「血の道というものか?」
 男である粛宗にはあまり馴染みがないが、中高年女性にはありがちな症状であるらしい。もっとも、生命に拘わるほどになれば、単なる更年期症状というよりは病なのであろうが。
「一体、何をされていて、このような有様になったというのだ」
 咎めるつもりはないが、尚宮にはそのように響いたのも無理はない。彼女はその場に手をついた。
「どうか私を殺して下さいませ。殿下」
 粛宗は溜息をついた。毎度のこの受け答えも、こんな危急のときは嫌になる。
「そなたを殺しても、母上が回復されるわけではない」
 第一、母には乳姉妹にも当たるこの忠義者の尚宮を殺したりしようものなら、目覚めた母に逆に粛宗自身が殺されかねないだろう。
「王子さまがお見えでした」
 尚宮の言葉に、粛宗はハッとした。
「ユンがここに来ていたのか?」
「はい。今日は中殿さまが軽いお風邪を召され、中宮殿の尚宮が王子さまをお連れになったのです。ゆえに、お迎えは禧嬪さまが来られました」
「禧嬪が?」
 オクチョンのことだ、大方、中宮殿の者の手を煩わせる必要もなく、自分が直接迎えにくれば良いと思っただけだろう。
 しかし、大妃はそれが気に入らなかった。
―あの女狐が母親面をして、のこのことここまで参ったか! 王子を産んだからと良い気になるでない。
 母がオクチョンに投げつけたであろう言葉のつぶてが易々と浮かび、粛宗の心は沈んだ。
 そして、それが原因で、母は気を昂ぶらせ過ぎてしまったのだ。自業自得といえばそれまでだが、その言葉一つで割り切るには粛宗の母への想いは深すぎた。
 そのときだった。隣の控えの間から声が聞こえた。
「殿下、中殿さまがお越しにございます」
「母上のお見舞いに来たのであろう。通せ」
 そこで、尚宮が立ち上がり、隣室に赴いた。彼女はすぐに戻り、粛宗に事の次第を伝えた。
「中殿さまは、ただでさえ弱られている大妃さまに風邪を移してはならないと仰せのようです」
 いかにも気遣いのできる王妃らしい。粛宗は頷き、もう一度母を見た。御医の手当が適切だったと見え、今すぐ容態が悪化することはなさそうである。
「母上を頼む」
 彼はそう言い置いて、母の病室を後にした。
 別室では王妃が待っていた。直前まで伏せっていたというのに、王妃の正装をきちんと着こなし、美しく装っている。この王妃が入内した時、まだ十四歳であった。小柄な王妃は実年齢より更に幼く見え、嘉礼を挙げたその夜も、粛宗は迎えたばかりの新妻と真の意味で床を共にはしなかった。
 あれから八年経過し、幼かった王妃も一人前の女性として美しく花開いた。華奢な身体もそれなりに女として成熟した感があり、粛宗は王妃の懐妊に一縷の望みを抱いたこともあったのだが―。長年、王妃を診察してきた御医の言葉は無情であった。
―畏れながら、この先も中殿さまがご懐妊される可能性はかぎりなく薄く。
 それでも、王妃はいつも穏やかに笑っている。粛宗が知る限り、この妻が怒ったり誰かを恨んだり妬んだりしていることは一度としてなかった。
「中殿」
 声をかけて室に入れば、王妃はスと立ち上がり、良人である王に深々と頭を下げる。
「そなたも風邪で寝込んでいたというに、大丈夫なのか」
 まずは労りの言葉をかけると、王妃は白芙蓉のような面に微笑を浮かべた。
「私ならば、たいしたことはございません。それよりも、殿下、義母上さまが大変なことになられたと慌てて飛んで参りました」
「そなたも風邪が落ち着いたら、見舞って差し上げてくれ。母上はそなたを娘のように可愛がっておられるゆえ、歓ぶはずだ」
「はい。このようなときに風邪を引くなど、情けないことです」
 眉を下げる妻に、粛宗は笑った。
「誰でも風邪を引きたくて引く者はおるまい」
 王の戯れ言に、王妃も美しい顔に笑みを浮かべる。と、俄に王妃の白皙が翳った。
「殿下、私、お詫びしなければならないことがございます」
「詫び? そなたはいつも妻として中殿として申し分ないのに、何を謝ることがあるのか判らないが」
 本当に王妃が何を言おうとしているか判らなかった。そんな彼に、王妃は真摯なまなざしを向けた。
「他ならぬ義母上さまの御事です」
「母上の?」
 軽くまたたきした粛宗に、王妃は低めた声で告げた。
「実は私、義母上さまより、ご病状が思わしくないと内々にお聞きしておりました」
「―」
 予期せぬ妻の言葉に、粛宗は衝撃を受けた。
「それは、いつのことだ、中殿」