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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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第三話「恋心」

  恋しさの香り(複雑な気持ち)

 その朝、粛宗は夜半に見た夢のことがひどく気がかりであった。
 ここは大殿の執務室である。眼前には山積みになった書状があるばかりで、彼の気のせいでなければ、それらは一向に減る風もない。それは何もお付きの信頼するホ内官が始終、室を出入りして承政院(スンジョンウォン)から届く書状を置いていくのが原因というわけではない。
 彼自身、今日はいつになく政務に集中できないと自覚はしていた。
 粛宗は知らず深い息を吐き出した。思えば、あれは不思議な夢であった。昨夜は珍しく大殿の寝所で一人、夜を明かした。王妃の住まいである中宮殿にも、寵愛する禧嬪の就善堂にも渡らなかった。
 特に理由はない。王妃にせよ、禧嬪にしろ、共に長年連れ添った糟糠の妻であり、今更共にいて気を遣う必要もない。禧嬪は彼がまだ十代から側近く仕えているのだから、十三年連れ添った計算になる。
 そのせいか、最近は異性というよりは、共にいて安らげる身内という意識が強く、粛宗がそんな風に思うのは禧嬪が昨年の秋、息子を出産したのにも大きく関係するに相違ない。
―子を産んだ妻を一人の女として見られなくなった。
 とは、よく巷で男が使う科白だ。粛宗はこれまで、そういう科白を聞く度に、所詮、古女房に飽きてきた男の身勝手な言い分だと思ってきたが、ここに至り認識を改めなければならなかった。
 けして妻を疎んじているわけでもない。飽きたわけでもない。妻というのは自分の子を産むまでは?女?に他ならないが、ひとたび子を産み母となれば、やはり女であるより母なのだ。つまりは、そういうことなのである。
 最近の禧嬪ことオクチョンは粛宗より生まれてまもない我が子最優先である。粛宗が訪れてもそっちのけで、息子が泣いた笑ったで大騒ぎしている有様だ。
 もちろん粛宗もオクチョンのそんな変化に腹を立てているわけではない。何しろ息子?(ユン)は前王妃が難産で生まれた王女ともに亡くなって以来、八年ぶりに授かった御子なのだ。今の王妃との間にこの先、子が授かる可能性が極めて薄い現在、粛宗の血を引くただ一人の大切な王子である。
 粛宗の本音としては、ユンをすぐにでも王世子に立てたかった。しかし、母、明聖大妃に真っ向から反対されたため、いまだに立太子は実現できていない。ユンは元子(世子でない王の長子)として、大切に育てられている。
 もっとも、ユンの生みの母たるオクチョンに、我が子を将来の王にしたいという気持ちはさらさらないようではあった。オクチョンは息子が生まれる前は、娘が欲しいと切望していたほどなのだ。娘であれば、将来、王女として上流両班家に嫁がせることができる。自分のように側妾ではなく正夫人として大切にされるのではないか。
 オクチョンはそう言っていた。その想いを聞いた時、粛宗は胸をつかれた。
 オクチョンの母は前妻の死後、正室に直ったものの、元々は側室だった。しかも、奴婢である。オクチョンはその出自のために幼い頃から随分と苦労してきたらしい。だからこそ、我が娘には自分と同じ悲哀は味あわせたくない。その母心が粛宗は切なかった。ゆえに、自分は何としてでも王位を受け継ぐべき息子を授かりたいと願っていても、オクチョンにその気持ちは殆ど明かさなかった。
 粛宗が知る限り、チャン・オクチョンほど無欲な女を他に知らない。後妻として迎えた今の王妃もオクチョンに負けない清廉な人柄だ。オクチョンの産んだユンを実子のように可愛がっている姿を見るにつけ、王妃をもまた不憫だと思わずにはいられない。
 王妃が身籠もりにくい体質だとは知っているが、できれば次代の王は正室から生まれて欲しいというのが本音ではあった。何もオクチョンが産んだユンが可愛くないというわけではない。ただ、ユンが王妃の子であれば、明聖大妃もこうまで頑強にユンの立太子に反対はしないだろう。
 粛宗はまた一つ溜息をつき、小さく首を振った。傍らから控えめな声がかけられる。
「殿下、お疲れなのではありませんか?」
 ホ内官、粛宗より数歳年長の比較的若い内官である。この内官はオクチョンの腹心女官イ・ミニョンの良人でもある。
「これしきで疲れていては、王の務めはできない。何しろ、まだ朝は始まったばかりだ」
 言葉どおり、今朝、眼を通した書状はまだ十通に満たない。粛宗は苦笑いを刻んだ。
「夕べ、夢を見たのだ」
「夢―でございますか」
 思慮深いホ内官は立ち入ったことを訊ねるでもなく、粛宗の次の言葉を待っている。
 粛宗は頷いた。
「まだ朕(わたし)が幼かった頃の夢だ」
 不思議な夢だった。夢の中で、彼は一面の白い霧の中を母と二人で歩いていた。大妃はまだ今よりずっと若く、彼は世子であった頃―つまり父王が健在であった時代に戻っていた。
 何を言うでもなく手を繋いで歩き続けていたら、ふっと手に感じる温もりがなくなった。
―母上(オバママ)、、母上!
 彼は焦って声を限りに叫べども、どこからも応(いら)えはない。
 その中、彼を取り囲んでいた霧がスウと晴れた。まるで海が真っ二つに割れるかのように霧は霧散し、代わりに一面の白い花が群れ咲く野原が出現した。
 季節は判らないが、可憐な小さな花たちがかすかな風に揺れている。
 彼はふと気づいた。遠くで母が手を振っている。優しい笑みを湛えて彼を呼んでいる。
―母上、待って下さい。私もすぐに参ります。
 勇んで駆け出そうとした途端、母の姿がかき消すように見えなくなった。
―母上、母上、どうされたのですか! どこに行かれたのですか。
 父王から?男子たる者、殊に将来、王となるべき者、人前で涙を見せてはならぬ?と厳しく言いつけられていたにも拘わらず、粛宗は泣き出した。
 夢の中のあの姿であれば、十歳の頃であったろうか。粛宗は何度も母を呼んだけれど、二度と母の笑顔を見られず、また?母上?と叫ぼうとして目覚めたのだ。
 ハッと床の上に起き上がった時、粛宗の頬は熱い滴で濡れていた。こんな有様を亡き父が見れば激怒されそうだが、粛宗の涙もろい性分はいまだに改善されていない。
 オクチョンも泣き虫だから、彼はよく
―チャン・オクチョンの泣き虫。
 と、からかう度に逆に
―私に泣き虫だと言う癖に、スンだって負けないほどの泣き上戸ではないの。
 と、やり返される。 
―何という不吉な夢を見たのだ。
 目覚めたのはまだ暁前であったというのに、それから眠りは訪れず、彼は悶々として朝まで過ごしたのだ。
 そういえば、と、彼は改めて、ここ数年の月日を振り返る。オクチョンを側に置いて以来、母との間の亀裂は深まる一方で、殊に母がオクチョンを宮外に追放してからは事実上、母子断絶といっても良い状態だ。彼にしてみれば、ユンの誕生を機に母の頑なな心も少しはやわらぐかと思いきや、現状は何ら変わらない。
 母にとってユンは事実上、初孫に当たる。だから、ユンへの愛情はあるらしく、王妃の許にユンが来ている時刻を見計らって中宮殿を訪れてはユンを抱いて相好を崩している姿も頻繁に見かけられる。王妃がユンを抱いて大妃殿を訪れたときには、もう座って待っていられず、庭先まで出迎えるほどだともいう。