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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 控えの間となっている隣室で、申尚宮が溜息混じりに言った。床の用意をする前、申尚宮はてきぱきとオクチョンの吐瀉物を片付けていた。
「尚宮さま。もしや」
 ミニョンの意味ありげな視線に、申尚宮も頷いた。
「以前、世子邸下を身籠もられたときも似たような症状であった」
「あのときは吐き下しでしたけど」
 申尚宮が余裕の笑みで応える。
「妊娠というのは、いつも同じ経過を辿るとは限らぬものだ」
「どうせ、私は未経験者です」
 拗ねたように言うミニョンに、申尚宮は年長者らしく鷹揚に言った。
「禧嬪さまご自身さえ気づいておられぬのだ。そなたが気づかずとも不思議はなかろう」
「御医を呼びますか?」
「いや」
 申尚宮は首を振った。
「中殿さまご懐妊との噂が立っている今、禧嬪さままでご懐妊とあれば、誰しもが対抗したかのように思う。それでは禧嬪さまのご評判が余計に悪くなってしまう怖れがある。ここは禧嬪さまには安静にして戴き、様子を見よう。御医を呼ぶのは中宮殿の動向がはっきりと判ってからで良い」
「判りました」
 ミニョンは頼もしい申尚宮の瞳をしっかりと見つめ頷いたのだった。
  
 その夜もまた、粛宗は中宮殿に泊まった。翌朝、オクチョンはミニョンに言った。
「蓮の花を見たいわ」
 その言葉を聞いた瞬間、ミニョンと申尚宮は顔を見合わせた。桜が漸く散ったこの時期、いかに何でも蓮は見えない。蕾さえつけてはいない。
 ミニョンの顔には、はっきりと動揺の色が現れていた。粛宗の寵愛を失いつつあることで落胆している上、王妃懐妊の噂まで聞きつけ、ついにオクチョンが狂ってしまったのではないか。
 一瞬、申尚宮も思いかけたのだ。だが、とにかく今はオクチョンの気の済むようにさせた方が良いと判断した。朝食も食べないままオクチョンは身支度を調え、蓮池に向かった。
 もちろん、蓮池には花の姿は影さえも見あたらなかった。とはいえ、既に緑の若い葉が茂り始め、まもなく来る開花の季節に向けて花は着実に準備をしているのだと知れる。
 その日は初夏を思わせる陽気で、蓮池のほとりまで来た時、一向はもう汗を浮かべていた。ミニョンと申尚宮は懐妊の可能性のあるオクチョンの身体を案じたものの、オクチョン本人は至って平気だっだ。
 昨日、泣くだけ泣いて、涙はもう、この身体のどこを探しても残ってもいない。男への期待と明日への希望はすべて泡沫のように砕け散った。なのに、この胸の奥に男への想いだけはしっかりと残っている。
 蓮池が見渡せる極彩色の四阿に佇み、オクチョンは眼を細めた。眩しい陽光が広大な池の面に乱反射している。あとふた月余りもすれば、ここは薄紅色の花に埋め尽くされるだろう。
 オクチョンには見えない幻の花があたかも見えるような気がした。
 オクチョンは握り拳で軽く鳩尾を叩いた。
「苦しいのですか、禧嬪さま」
 申尚宮が問うと、オクチョンは微笑んだ。
「苦しいのは苦しいけれど、身体ではないの。ここが」
 オクチョンはまた拳で胸の辺りを叩いた。
「心が苦しくて堪らない」
「禧嬪さま、例の中殿さまのご懐妊の件ですが」
 ミニョンが切り出した。
「ホホウ、このような場所でする話でもなかろう。折角禧嬪さまが気散じされている最中にこの無粋者めが」
 申尚宮がたしなめるのに、ミニョンは烈しい勢いで申尚宮に食ってかかった。
「お言葉ですが、尚宮さま、私はそのようには思いません。禧嬪さまのお心の痛みの原因は中殿さまの御事です。ならば、私どもがそのお悩みを解決して差し上げるのが一番ではありませんか」
「そなた、口を慎め。ご懐妊との噂の中殿さまが世子さまの母君であらせられる禧嬪さまにとって悩みになる。その悩みを消すとは何と不穏なことを申すのだ。ここに私とそなたしか人はおらぬとはいえ、どこに眼と耳があるのか判らぬのが後宮という場所だ。宮仕えも長いそなたであれば知らぬはずはなかろう。我らの不用意な言動が禧嬪さまを追い詰めることになるぞ」
 以前のことを思い出せ、申尚宮が小声で言った。そのひと言に、ミニョンが顔を翳らせせる。
 オクチョンには、それが何を意味しているのか判った。もう十年前のことだ。ミニョンはオクチョン大事のあまり、懐妊中の前王妃のお腹の子の性別を占い師に見させたことがあった。占い師と拘わっていたことで、オクチョンは義禁府に連行され、あわや王妃呪詛の罪で咎人にされるところだったのだ。
 あの占い師を後宮に呼び寄せ、オクチョンと対面させたのはミニョンだった。
 オクチョンは微笑み、二人を見た。
「申尚宮、それにミニョン。ありがとう」
「禧嬪さま」
 二人は異口同音に言い、照れくさげに口を噤んだ。
「私のことで今もあなたたちに気を遣わせてしまっているのは本当に申し訳ないと思う」
 それにはミニョンが即座に言った。
「私たちは禧嬪さまにお仕えすることを何よりの歓びとしております。ゆえに、禧嬪さまが何もご案じなさることはないのです」
 申尚宮も控えめに言った。
「ミニョンの言うとおりです。私どもは禧嬪さまにお仕えすることが昔から生き甲斐でした」
「こんな私に変わらぬ真心を示してくれる。この伏魔殿で、私は本当に一人ではないのね」
 心から、ありがたいことだと思った。
 そこで、ミニョンが遠慮がちに言った。
「先刻の話ですが、続けてもよろしいでしょうか、禧嬪さま」
「構わなくてよ、続けて」
 むしろ聞かせて欲しいくらいだったが、流石に、それは口に出せない。オクチョンの意図を察したのか、申尚宮ももう何も言わなかった。
 ミニョンは首を傾げつつ言った。
「ご懐妊の噂ですが、どうやら単なる噂に過ぎなかったようです」
 ミニョン自身が内医院の懇意にしている医官に金を握らせ、内々に聞き出した話によれば、王妃の体調がここ半月ほど悪かったのは真実だそうだ。それが吐き気など妊娠初期特有のものであったこと、また、間遠でも続いていた月事がもう半年以上も訪れていないことなどから、王妃の掛かり付け医が
―中殿さまにおかれましては、ご懐妊のご兆候あり。
 と、口にしたらしい。
 だが、三日前、王妃が八ヶ月ぶりに月のものを見て、期待に色めきたっていた中宮殿は一挙にうち沈んだ。どうやら、周囲があまりに?ご懐妊?の期待をかけすぎ、精神的に追い詰められた王妃の身体が妊娠初期のような兆候を見せたらしい。つまりは?想像妊娠?の類であった。
 貴人女性の膚に直接触るのは畏れ多いということで、御医は遠くから細い紐状のようなものを通して?脈診?で診断する。王妃の手首に糸を巻き、御医がその少し離れた場所でその紐の端を持ち、紐を通して伝わってくる脈で診断を下すのだ。想像妊娠では、この脈診でも時に本当の妊娠のような診立てが出る場合もあった。
 御医の誤診といちがいに責められるものではなかったのである。
 ただ、この時、一つだけオクチョンには伝えられなかった真実もあった。