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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 オクチョンは満開の桜を仰ぎ見た。心ない風が吹く度に、花びらが雪のように散ってゆく。早い樹はもう半分近く緑眩しい葉を見せているものもあった。
 面妖なことに、この瞬間、オクチョンは亡くなった大王大妃の死の間際の心境が手に取るように理解できた。
―オクチョン、咲くのも花の運命なら、散るのもまた花の運命というものだ。
 彼(か)のひとであれば、恐らくこの風景を見て、そう言うに違いない。伏魔殿と呼ばれる後宮で長い年月を生き抜き、数々の試練に耐えながらも見事に自分の花を咲かせた女性だった。
 大王大妃は、およそ世俗の権力には囚われない人であった。かつての王妃という地位、王室の最長老という立場もあの稀有な女性には何の意味もなかった。
 はるかに年上の良人である王を一途に恋い慕い、王に死に別れてからも、心の中で亡き良人への思慕を切々と燃やし続けて逝った。
 恐らく、あの方にとって最も意味があったのは、王妃という栄誉ではなく、何より大王大妃が得たいと願った良人仁祖の愛と関心ではなかったのか。むろん、大王大妃から直接聞いたわけではなかったけれど、今になってオクチョンはそう思えてならなかった。
―大王大妃さま。あなたさまが一番欲せられたものとは、恐らくは仁祖殿下のみ心だったのですね。
 他には何も要らない。たとえ市井に生きる名もなき民であったとしても、恋うるお方のお心だけあれば何も望まない。
 大王大妃の心の叫びがオクチョンには聞こえてくるようであった。
 だからこそ、あの方はあんなにも泰然と、凛としていられたのだ。長く厳しい冬を乗り越えて咲く花のように、気高く穢れない花を心に持っていらっしゃったのだ。
 大王大妃にとって、死は怖いというよりはむしろ待ち望んだものだったかもしれない。恋い焦がれた仁祖の許に漸く旅立つことができたのだから。
 私も同じだ。オクチョンは次々にちり零れゆく花びらを眼で追いつつ考えた。
 この世の栄耀栄華など欲しくはない。ただ、あのひとの心が欲しい。あの男の心が他の女の立ち入る余地がないほど私の存在で満たされなければ、私の心も満たされない。
 スン、私は欲張りで醜い女になってしまったわ。恐らく、本当の私を知ってしまったら、あなたは私を嫌いになるでしょうね。
 男への愛がオクチョンを変えた。それは、あまりにも烈しく深すぎる愛だった。
 けれど、私は大王大妃さまのようには生きられない。たくさんの花が咲き乱れる花園で虚しく散ってゆくなんて耐えられない。
 本当に欲しいものは、どんな手段を使ってでも手にしてみせる。
 またひときわ強い風が吹き抜け、花びらが狂ったように舞い上がる。雪のように美しい花びらがオクチョンの髪に肩に降り積もった。
 風が吹く度に花びらは散ってゆくのに、いまだ残っている花は何か未練たらしく枝にしがみついているように見える。
 オクチョンは眼を見開き、まだ樹に残っている花たちを眺め続けた。

  犠牲の代償

 情熱的な一夜を過ごし、スンとの夫婦仲も元どおり濃やかになる―、安心したオクチョンの読みは甘かった。
 スンがその後、夜に訪れることは一切なく、数日おきに訪ねてはくるものの、それはユンを交えてのいかにも家族らしい団欒で、間違っても恋人同士の甘い雰囲気というのではなかった。
 以前のオクチョンならばそれで十分満足したろうが、今は違った。スンへの深まるばかりの想いのせいで、一刻も二人きりになりたくて堪らないのに、スンはユンが保母尚宮に連れられて東宮殿に帰ってゆくと、自分もそそくさと大殿に戻る。
 オクチョンには、それが自分と二人きりになるのをスンが避けているようにさえ思えてしまうのだった。心が塞いでばかりいるせいか、最近、体調も思わしくない。
 食が進まず、鬱々と部屋に閉じこもる日々が続いた。更に、就善堂には一向にお渡りがないのに、中宮殿には三日にあげずスンが泊まっているとの知らせが余計に気鬱に拍車をかけた。
 その朝、オクチョンはとうとう薄い粥でさえも喉を通らなくなってしまった。いつも食事中は申尚宮かミニョンが側にいて給仕してくれるのだが、たまたまミニョンが用事で立っていた最中のことだ。
 ミニョンのいつになく厳しい声音が隣室から漏れ聞こえた。
「シッ、声が高い」
 かつては動作ものろく仕事もできないと虐められていたミニョンも、今は就善堂ではなくてはならない筆頭女官である。責任者申尚宮の片腕として殿舎の万端を取り仕切る有能な側近として活躍していた。
 が、ミニョンは若い女官を指導するときは厳しいけれど、昔と変わらず年下の者には優しい気遣いを示す。そんなミニョンであってみれば、ここまで声を荒げるのは珍しい。
 オクチョンは別に二人の話を聞こうと思ったわけではないが、つい耳をそばだててしまったのは事実だ。
「ですが、イ女官さま。私、あまりにも悔しくてなりません。中殿さまがもしかしたら、ご懐妊かもしれないだなんて」
 瞬間、オクチョンは自身の心ノ臓が止まるのではないかと思った。それほどの衝撃だった。
「判らぬか、声が高い。ここをどこだと思っている。禧嬪さまのお部屋だぞ」
 またミニョンの叱声が飛び、後は若い女官の声も小さくなり聞き取れなくなった。
 オクチョンは立ち上がろうとして、目眩を憶えて、ふらついた。ふいに烈しい嘔吐感が涌き上がってきて、その場にくずおれた。
「ううっ」
 吐き気は一向に去らない。ここ数日は薄い粥さえろくに食べていないため、苦い胃液が口中にたまるばかりである。
 中殿が懐妊。
 その言葉が頭の中で嵐に翻弄される木の葉のように舞っていた。さもあろう、ここのところ、スンは王妃の許で過ごす夜があいついでいる。あれで懐妊しない方がおかしい。
 とうとう怖れていたことが起こってしまった。この時、オクチョンが怖れたのは世子の母として権力を失うことではなかった。懐妊により、王妃へのスンの寵愛がいっそう深まることが何より恐ろしかった。
 オクチョンは烈しく嘔吐(えず)きながらも、大粒の涙をこぼした。扉が開き、ミニョンが戻ってきたようである。
「禧嬪さまっ」
 ミニョンの声に烈しい狼狽が混じった。
「どうなさったのですか?」
 慌てて駆け寄り、助け起こされながら、オクチョンは訴えた。
「中殿さまがご懐妊されたの?」
「―」
 ミニョンの顔がサッと蒼褪めた。
「隠さないで。後宮にいれば、いずれ知れることよ」
 ミニョンの丸い顔がクシャリと歪んだ。
「何とも言えません、禧嬪さま。今、内医院に人をやって噂が真実かどうか確認中です」
「ミニョン。どうすれば良いの。この上、中殿さまがご懐妊されたら、殿下はもう私のことなんて見向きもされなくなってしまうわ」
 オクチョンは聞き分けのない子どものようにしゃくり上げた。
「そのようにお嘆きなさいますな。ただでさえお弱りになっているお身体に障ります」
 ミニョンがオクチョンを抱きしめ、背をさすった。そこに尋常でない雰囲気を察した申尚宮も駆けつけた。
「禧嬪さま、落ち着いて下さいませ」
 申尚宮はすぐに女官たちに床の用意をさせ、オクチョンを休ませた。
 布団に入るや、オクチョンは疲れ果てたように眠りに落ちた。
「少し吐かれたようだな」