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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 壁にはめ込まれた八角形の窓から、あえかな月光が差し込んでいる。オクチョンが湯殿から出て回廊から仰ぎ見た月は丸く、凛と輝いていた。
「俺をあまり気の長い男だと勘違いしていなか?」
 夜着の前結びになった紐が素早く解かれた。上着の合わせを開かれると、オクチョンの上半身は月光の下に露わになった。既にスンによって枕許の蝶型燭台に点された明かりは消されている。
 それでも、眩しいほどの月夜のせいか、閨の内は互いの顔の輪郭さえ判るほど明るかった。
 スンの手によって、チマは花びらをめくるように一挙に持ち上げられてしまう。唾液にまみれた唇から、喉元、鎖骨を彼の唇がなぞる。それだけではやオクチョンは我慢できなくて、切ない吐息が洩れるのを抑え切れなかった。
「う、―ぁ」
「そなたは可愛い。俺が知っている中の誰よりも美しく可愛い。よもや俺と喧嘩している間に、怒って出てゆこうなどと考えたりはしなかったであろうな?」
「それは、少しは考えたけど」
 うっかり口をすべらせたのがまずかった。スンの美しい面にまた意地悪そうな笑みが浮かび上がる。
「聞き分けのない妻にはお仕置きが必要だな」
「お、お仕置き?」
 物騒な言葉に、オクチョンの喉がヒクリと震える。
「そなたがまたここ(宮殿)に残らねば良かったと後悔するほど滅茶苦茶にしてやりたい。そんな気持ちに耐えるだけで精一杯だ」
 若く精悍な男の、危険なほどの荒々しい欲望をしっかりと感じる。オクチョンが欲しがっていた優しい接吻なんて、生やさしい要求だったのかと思い知らされる。
 それでも彼にこうして愛されることは、この上ない至福だった。堪えていた涙が零れた。
 彼は愛おしげに頬をつたう涙を舌先で舐め取ってくれた。
「できるなら、俺の全部を許してくれ。そなたを愛している」
 オクチョンは手のひらで泣き濡れた顔を隠し、何度も頷く。
「もう二度と離さない」
 スンの悪戯な指が伸びてきて、オクチョンの出産によってより豊かになった胸のふくらみを弄る。この瞬間、彼女の胸は幸せの鼓動を打っていた。
 あまりに幸せすぎて、恐ろしいほどに思える。スンはオクチョンの身体を当然のようにその場に押し倒した。

 いかほどの刻が過ぎたのか。幾度もの嵐が二人の上を通り過ぎていった。互いを烈しく求め合っていながらも、つまらない意地で離れていた。そのわずかな空白を埋めるかのように、二人は何度も交わった。
 何度目かの嵐の後、オクチョンはスンに引き上げられ、二人は座った姿勢で脚を絡ませて向き合った。彼はオクチョンの中に身体を沈めたままだ。
 キスをするには最適の体勢だった。
スンがオクチョンの唇を優しく舐め、彼女もお返しのように唇を舐めた。
 彼が顔をほころばせる。花がゆっくりと開いてゆくような、彼女の大好きな笑顔。その笑顔を味わい、そっと手のひらで彼の顎を撫でる。
 毎朝、お付きの若い内官が王の身支度を手伝うのが日課で、今朝も髭をきちんと剃っているはずなのに、早くもスンの頬から顎にかけて、うっすらと髭が覗いている。
 頬のざらざらした感触を愉しんでいると、胎内でスンがわずかに動き、脈打った。彼がかなり昂ぶっていること、二人が今、何ものにも邪魔されないで二人だけの強い絆で結ばれているのを感じさせる。
 オクチョンはキスするたけでも極めそうなのに、スンが仰向けになって彼女を馬乗りにさせた。
「好きに動いても良いよ」
 いつもはここで恥じらってしまうのだが、今夜は違った。オクチョンは今夜、生まれ変わるつもりだった。これまでは周囲に遠慮ばかりして生きてきた。たとえ自分の欲しいものだとしても、手に入れられないのならば諦める。それがオクチョンの常識であり、生き方であった。
 だが、欲しいものをどうして諦めなければならないのだろう? 賤民であろうが、王族、両班であろうが、本来、人に区別はないはず。両班として生まれても、無能な者はいるし、賤民の中にも賢明な人はいる。
 身分が低いからという理由だけで、自分が欲しいものを諦める必要はないし、生きたいように生きる邪魔をされる筋合いはない。
 オクチョンは思いきって腰を動かしてみる。
「―う」
 スンの唇から、かすかな呻きが洩れた。苦痛ではなく、快感を感じたような声だ。自分がスンにそれだけの影響力を与えているのが嬉しくて、オクチョンは逞しい胸板に両手を添えながら腰を少しだけ浮かす。
 それから恐る恐る腰を落とせば、スンの綺麗な顔に紛うことなく恍惚の表情が浮かんだ。
「続けてくれ、オクチョン」
 スンの声が追い立てられるかのように、切羽詰まっている。オクチョンは今度は先ほどより高く、殆ど彼自身が抜けそうなほど腰を高くし、勢いをつけて落とした。
「―っつ」
 スンが眉根を寄せ、オクチョンの奥深くに収められた彼自身が暈を増した。そのことで、オクチョン自身も信じられないほどの愉悦を下半身で憶える。
 その夜、二人は何かに追われるかのように忙しなく絡み合い、もつれあって抱き合い続けた。

 スンが大殿に帰った後、オクチョンは少し遅めの朝餉を取った。その後、申尚宮とミニョンを引き連れ、庭園に向かった。ユンを連れて朝の挨拶に来た保母尚宮によれば、ユンは昨夜の冷え込みのせいか、朝から鼻水を出しているとのことだった。
 世子冊立の儀を終え、ユンは就善堂から世子の住まいである東宮殿に移った。まだ赤児であるとはいえ、スンはしきたりを破るつもりはなく、生母のオクチョンは愛盛りの息子を結果として手放すことになった。
 とはいえ、保母尚宮は心得た女で、毎朝、ユンを連れて就善堂に来る。ここのところ、オクチョンがユンを連れて中宮殿を訪問することはなく、代わりに三日ごとに保母尚宮にユンを連れて挨拶に行かせていた。
 スンと久しぶりに烈しい夜を過ごし、オクチョンは昨夜は寒さなど感じるゆとりもなく、現に幾度も身体を重ねた二人は汗まみれになった。
 そろそろ桜も散ろうかというのに、昨夜はかなり冷え込んだらしい。既に御医に診察させ、投薬なども行っていると聞き、オクチョンは今朝はユンを連れずに散策に出た。
 広大な庭園の一角、桜並木が続いている小道に差し掛かっり、オクチョンはふと歩みを止めた。後ろを守るように付いてくる申尚宮とミニョンも立ち止まった。
 刹那、三人の側を春の風が吹き過ぎた。かなり強い風は桜の梢をざわめかせ、勢いで薄紅色の花びらがはらはらと風に舞う。
「今年の桜もそろそろ終わりね」
 呟くと、傍らに立っていた申尚宮が頷いた。
「桜を見るのはまた来年まで待たねばなりませんね」
「申尚宮、桜は私たちと違って永遠に生き続けられるのね」
 申尚宮がオクチョンを物問いたげに見た。オクチョンは淡く微笑んだ。
「私たちはいずれ寿命が尽きれば、その生を終える。けれど、桜は人が死んだ後もここで春が来る度に咲き続けるでしょう」
 傍らからミニョンがやや強い口調で言った。
「禧嬪さまは国王殿下のご寵愛を受けて永久(とこしえ)にお栄えになる御身ではありませんか。禧嬪さまのお産みあそばした御子さまも晴れて世子さまになられました。なのに、何故、そのような不吉なことを?」
「この世の栄華など、たとい手にしたとて儚いものだわ」