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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 鏡の中に映った女が何故か一瞬、見知らぬ人間に見えた。オクチョンの顔立ちはかなり化粧映えする。何もしなくても綺麗だと言われるが、自分では化粧した顔と素顔は別人のように違うと思っている。
 普段からあまり濃い化粧は好みではないので、しない。ゆえに、今夜のように濃い化粧をすると、余計に別人のように見えてしまう。
 改めて鏡をのぞき込めば、ミニョンが気合いを入れて化粧をしてくれたせいで、唇だけが随分と浮いている。全体的に濃いめの化粧の時、やはり唇だけ色が大人しいと釣り合いが取れないようだ。
 オクチョンは溜息をつき、鏡台の小さな引き出しを開けた。中には幾種類かの小さな容器が入っている。どれも七宝焼きの見事な器ばかりで、その中の一つを取り上げた。蓋を開き、人差し指でひと掬い紅を取る。
 この色は先ほど、ミニョンが乗せてくれた紅と同じ色合いなのだ。オクチョンはひときわ明るい紅をまた唇に乗せた。
 指で唇をゆっくりとなぞりながら、鏡の中に恋しい男の面影を思い浮かべた。
―私だけを見て。
 願いを、想いを込めて、一心に紅を塗る。
 この日、オクチョンは胸に秘めたこの恋心だけは誰にも譲れないと改めて知った。
 私からスンを奪おうとする者は、たとえ誰であろうと許さない。

 宵の口に王が訪れた。
 寝所にはこれまたいつものように小卓が用意され、酒肴の支度が調えられている。
 鶏の蒸し物や青菜のキムチ和えなどの他に綺麗に切り分けられた林檎の乗った皿もあった。オクチョンは立ち上がって一礼し、スンを迎える。
 スンもいつものように白い着流しの夜着姿だ。二人は何も言わず、小卓を間に座った。
「どうぞ」
 酒器を捧げ持ち、スンを見つめる。なかなか彼の顔を見る勇気がなかったが、心を決めて真っすぐに見つめた。
 スンは杯を差し出し、注がれた酒をひと息に煽った。オクチョンが再度注ごうとするのを制する。
「今夜はもう良い」
 沈黙が二人を包み込んだ。スンがお酒でも飲んでいてくれたらまだ間が持つのに、これでは何をすれば良いのか判らない。
「お酒が要らないなら、果物でもいかが?」
「―いや」
 スンは小さく首を振り、オクチョンを見た。
「こういうのを夫婦喧嘩というのかしら」
 考えあぐねた末、口をついて出た言葉はあまりにお粗末なものだった。こういう場合はまず
―私が悪かったわ。少し意地を張りすぎたのね。
 とか。他に何か言い様があるだろうし、事実、幾通りかは事前に練習していたつもりだったのだが。
 スンの眼が大きく見開かれ、先刻以上に沈黙が深まった。
―まずかったかしら。
 焦って次の言葉を探しかけたオクチョンの耳に、プッと吹き出す音が聞こえた。
 恐る恐るスンを窺うと、彼は腹を抱えて笑っている。
「まあ、失礼ね」
 オクチョンはムッとした。自分はああでない、こうでもないとさんざん悩んで漸く口にしたのに、何もそこまで笑い転げなくても良いだろう。
 スンは笑いながら、涙目になっている。
「いや、実は俺の方も一体どうやって切り出そうか、謝ろうかと考えあぐねていた矢先だったから」
 彼のその?謝ろう?というひと言で、オクチョンの頑なになっていた心は愕くほど素直になれた。
「私の方こそ、悪かったのよ。ユンはいずれは中殿さまのお子にして戴くのだから、世子冊立の場ではやはり中殿さまに抱いて戴くべきだったのに、私が道理を理解できていなかったのね」
 心からの言葉がすらすらと出てきて、オクチョン自身もホッとした。
 スンも頷いた。
「いいや、悪いのはそなただけではない。俺もそなたの気持ちを思いやれなかった。中殿がユンを抱くのは当然だとしても、もう少しそなたの心を思いやった言い方をすれば良かったんだ」
 次の瞬間、二人はほぼ同時に口を開いていた。
「ごめん」
「ごめんなさい」
 しばらく二人は見つめ合っていた。少しく後、スンの弾けるような笑い声が寝所に満ちたしじまを破り、次いでオクチョンの笑い声が響いた。
「私、今、とても幸せよ」
 オクチョンのしみじみとした言葉に、スンが小首を傾げた。オクチョンは微笑んだ。
「夫婦喧嘩というのは、夫婦でなければできないでしょう。あなたが国王さまだと知った時、私なんて到底スンの奥さんにはなれないと思った。でも、今、こうして私はあなたの妻としてあなたの側にいられる。これ以上の幸せは望めないわ」
「オクチョン」
 スンが息を呑み、見る間に彼の頬がうっすらと上気した。
 彼は小卓を脇に押しやり、オクチョンに手招きした。
「おいで」
 オクチョンは恥じらいながらも、彼の側にに近寄る。
「俺が何故、今宵は酒を飲まなかったか、判る?」
「さあ? 何か特別な理由があるのかしら」
 オクチョンとしては本当に思い当たらなかったのだが、スンがニヤリと口の端を上げた。
「それも男を惑わすための手管かい、チャン・オクチョン?」
 その言葉に、オクチョンがハッとして面を上げた。
「酷い、スンまでそんなことを言うのね。私があなたを誑かしている妖婦だと思うの?」
 たとえ誰に誤解されようと構いはしないが、スンにだけは言われたくない科白だったのに。オクチョンが瞳を潤ませれば、スンが狼狽えた。
「悪い、本気で言ったのではない。ほんの冗談のつもりだったんだが」
 涙を堪えているオクチョンを必死で宥めている粛宗の姿は確かに傍目から見れば、?禧嬪張氏に骨抜きにされている?国王の姿かもしれない。
 もちろん、当人たちにはそんな自覚はさらさらない。要するに、オクチョンも言ったような世間でよくある夫婦喧嘩ともいえないようなものだ。だが、市井に生きる名もないただ人ならそれで済むものを、国王とその妃ともなれば、ただの痴話喧嘩では済まない。
 すべてが大げさに取り沙汰され、良人が妻の機嫌を取ろうと躍起になっただけで、眉をひそめられる。そうして、王を寝所で言うなりに操る妖婦扱いされるのはオクチョンだ。
 もしオクチョンが不幸だとしたら、愛した男が国王だった―それ一つだけかもしれない。
 涙ぐむオクチョンを腕に抱き、スンが囁いた。
「今夜は久しぶりに酒ではなく、そなたを存分に味わいたい気分だ、オクチョン」
「―っ」
 オクチョンの白い頬が朱を刷いた。
 スンが少しずつオクチョンに顔を寄せてくる。彼女にどうやって接吻(キス)しようか探し求めるかのように、最初は首を片側に傾け、次に反対側に傾ける。
 オクチョンにとっては永遠に思える瞬間だった。
 スンが漸く唇を重ねた。荒々しくはないけれど貪るような口づけに、彼女は自然に口を開いていた。
 口づけは、ほのかに酒の味がした。心の奥底に潜んでいた欲情が頭をもたげ、情熱に火が付く。それまで固く閉ざされていた想い出への扉が開き、スンがオクチョンの身体の至る所に接吻の雨を降らせた過去の情景が鮮やかに甦った。
 こうやって、彼とは幾つもの夜を過ごし幾度も身体を重ねてきたのだ。
 彼は相変わらず、オクチョンの身体にいとも容易く火を点した。自分の身体は彼の愛撫によって、すぐに燃え盛る焔に包まれる。恐らくオクチョン自身よりも彼の方が彼女の身体について知っているに違いない。そのことを今更ながらに思い知らされた。