小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

INDEX|14ページ/35ページ|

次のページ前のページ
 

 ただの市井で生きていた一人の少女が考えられないような玉の輿の階段を駆け上ったのだ。他人はその立身ばかりを見て、オクチョンが成り上がりだと蔑みと羨望の入り交じった視線で見るけれど、当のオクチョンにすれば、あまりにも変わった境遇についてゆくだけで精一杯だったろう。
 それでも、彼女は見事に後宮という伏魔殿に根付き、美しい花を咲かせたのだ。
―俺は一体、何を見ていたのだろう。
 深い後悔の念にとらわれた。
 初めての求婚を断られた日を思い出す。彼の大勢の女ではなく、ただ一人の女でいたい。いかにもオクチョンらしい真っすぐな想いをぶつけてきた。自分もそれには応えられないと一度は諦めようとして諦めきれなかった。
 宮殿で女官となったオクチョンと再会し、国王だと正体が露見した時、彼女は生涯、彼の側にいると約束してくれた。その言葉どおり、オクチョンは彼のためにすべてを受け入れ、耐え抜いて生きてきた。
 なのに、自分はオクチョンを守ってやるどころか、いつしか疑心暗鬼で彼女を見るようにさえなっていたではないか。他人の言葉に踊らされ、王妃とオクチョンを知らず比較していた。オクチョンにはオクチョンの良いところがたくさんあるというのに。
 元々はオクチョンも心の美しい優しい少女だった。粛宗はオクチョンの外見の美しさではなく、その心の清らかさに惹かれたのだ。いや、先刻も見たように、彼女の根本はこの伏魔殿でも、いささかも損なわれていない。
 粛宗は久しぶりに明るい気持ちになった。背後に付き従うホ内官に目配せし、足音を立てないように踵を返し、大殿に向けての帰路を辿った。

 同じ日の夕刻、就善堂に大殿の女官が国王の使者として遣わされた。久々の王のお渡りがあると聞かされ、就善堂の女官たちは皆、色めきたった。
 筆頭女官のミニョンは当のオクチョンより張り切っている有り様である。
 オクチョンの支度はまだ陽が明るい中から始まった。まずは湯浴みである。湯殿には満々と清潔な湯を湛えた浴槽が準備され、緋薔薇(ひそうび)の花びらが浮かんでいる。
 良い香りのお湯に浸かったオクチョンの身体を女官が数人がかりで磨き上げた。湯船に浸かったオクチョンは、ほっそりとした指の先で湯面をゆらゆらと漂う深紅の花びらをつまんだ。
 三十歳とはいえ、オクチョンの身体は子を産んだとは思えないほど、余分な肉もついていない。スンと出逢った頃と変わらず、手足はすんなりと伸び、腰は細い。胸乳は子を産んでから、かえって張りが出て豊かになった。ユンが生後三ヶ月になるまで、オクチョンは自ら乳を与えた。
 ユンは健康な児で、お乳もよく飲む。だから、保母尚宮とオクチョンが交互に授乳して丁度足りるくらいだ。三ヶ月が過ぎたところで授乳は止めて、以来、保母尚宮に任せている。最初は溢れるように出ていた母乳も今は殆ど出なくなった。
 白い雪肌は肌理こまやかで、染み一つない。透き通った膚は湯を弾いて艶やかに輝いている。まさに純白の椿の花片がしっとりと水を帯びて潤んでいるような、みずみずしい風情だ。
 オクチョンは手のひらで湯を掬い、湯に浸かっていない肩にかけた。眼の前をまた紅い花びらが漂い流れてゆく。
 かつてスンは毎夜のようにオクチョンの許を訪ね、彼女を抱いた。王を迎えるための支度はいつも夕刻の湯浴みから始まるけれど、その度に介添えの女官に素肌をさらすのが恥ずかしかったものだ。
 何故なら、オクチョンの白い身体には至る所、前夜、スンに愛された痕跡が残っていたからだ。色が白いがために、身体中に散り敷いた紅い花びらのような痕は余計に目立ってしまう。それはスンが彼女の素肌に刻み込んだ所有の印だった。
―恥ずかしいから、止めて。
 オクチョンが頼めば、意地悪なスンは余計におもしろがって咬み痕や吸い痕をつけた。殊に執拗に弄られる乳房には無数の紅い痕が散っていて、女官たちの前で衣服を脱ぐ度に赤面する想いだった。
 もちろん、よく仕付けられた女官は何も言わないし、表情にさえ出さない。頬が燃えるように熱くなるほどの羞恥心を堪えながら、オクチョンは毎日、スンを迎えるために女官たちに素肌をさらし、身体を磨き上げられた。
 口づけの痕が絶えず、恥ずかしい想いをしたあの日々が今はもう遠い昔になった。今、自分の身体はあの頃と比べてさほど衰えたとは思えないのに、白い肌に淡い花びらが散ることはない。
 オクチョンが浴槽から出た勢いで、ザッと飛沫が跳ねた。女官たちがすぐに大きな布でその身体をくるむ。
 肩から羽織らされた夜着が随分と薄いのに気づき、オクチョンは苦笑した。大方、ミニョンの指図に違いない。改めて自分の身体を見れば、殆ど夜着の役目を果たしておらず、身体の線が透けている。乳房どころか、秘められた下のあわいまで丸見えだ。
 溜息をつき、いつもの夜着に替えるように命じると、まだ若い女官は慌てて走っていった。その女官が取りに戻ってきたいつも纏う夜着を改めて着てから、居室に戻る。
 居室には化粧道具一式を整え、ミニョンが待っていた。
 螺鈿細工の鏡台の前に座ると、ミニョンが背後に回る。
「お湯加減はいかがでしたか?」
 問われ、オクチョンは笑った。
「のぼせそうよ。いつもの倍以上の手間をかけて磨かれたせいかしら」
「久々のお渡りですゆえ、念には念を入れませんと」
 ミニョンの澄まし声が肩越しに聞こえてくる。
「ご用意した夜着は、お気に召しませんでしたか?」
「あれは幾ら何でもやり過ぎよ」
 オクチョンは小首を傾げた。
「久しぶりだからって、張り切りすぎていると思われたくないわ」
 いかにもオクチョンらしい素直な心情の吐露に、ミニョンも笑いを含んだ声で応える。
「あら、私は月に一度、宿下がりをする日はこれでも装いには念を凝らすのよ。良人の気を常に引きつけておくためには、もう少し大胆にならないと駄目よ、オクチョン」
 いきなり親友時代に戻ったミニョンに、オクチョンは微笑んだ。
「それはそうかもしれないけど、私には無理。できそうにないわ」
 ミニョンが溜息をつく気配がした。
「まあ、そういう飾らないところがオクチョンの良いところで、殿下もそこに惹かれているのかもしれないしね」
 心得た腹心女官は手慣れた様子で、次々と用意を調えてゆく。洗い髪に薔薇の香油を降りかけ、櫛で丁寧に梳り、横で一つに緩く纏める。
 更に白粉を薄く塗り、目尻や頬にうっすらと紅を入れた。オクチョンの眉は元から描く必要のない美しい柳眉であるため、眉は描かない。仕上げに艶やかな紅を唇に乗せ、終わりだ。
 その華やかな色はオクチョンに湯船を漂っていた花びらを思い出させた。
「ありがとう」
 一礼して出ていくミニョンに声をかける。扉が閉まったのを見届け、オクチョンは懐紙を取り上げ、唇を無造作に拭った。やはりミニョンは力を入れすぎているようで、紅の色もいつもと比べて随分と派手である。
「ミニョンには申し訳ないけど、この色は我慢できないみたい」
 独りごち、オクチョンは愛用している珊瑚色の紅を人差し指で掬い、唇に塗った。
「これで良し、と」