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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 今では大妃の計略で後宮を追われ、彼と離れていた忍従の時代の方が懐かしくさえある。あの頃、たとえ宮殿と別邸と遠く隔たっていても、オクチョンの心はスンのすぐ隣にあった。
 なのに、今はどうだろう。同じ宮殿内に住みながら、愛する男はあまりにも遠かった。
 ふいに涌き上がった涙を堪え、オクチョンは足早に歩き出した。就善堂に辿り着くや、眠っていたユンが眼を覚まし、泣き出した。
 オクチョンはミニョンからユンを抱き取り、そのまま居室に入った。どれだけあやしてもユンはいっかな泣き止まず、もしかしたら母の心の乱れが息子にも伝わってしまったのかもしれないと思う。
 子どものためにも泣き止まなければと思いつつ、オクチョンはどうしても涙が止まらなかった。オクチョンはいつまでも泣き続けるユンを腕に抱きしめ、自分も一緒に泣いた。

 オクチョンが泣いているセウォルと話している丁度その同じ時、粛宗はたまたま庭園に向かう途中であった。
 最初は王妃を散策に誘うつもりであったが、たまには一人でゆっくりと花を愛でるのも悪くはないと思い直したのである。花といえば、と、彼は改めて思い出した。
 オクチョンの住まい就善堂の庭には今、紅吊舟の苗が所狭しと植えられている。まだ幼い苗木だけれど、もう少しすれば燃えるような花が群れ咲くのだと、オクチョンが嬉しげに話していたのを思い出す。
 嬪になっても相変わらず、ノリゲは彼がもう十数年も前に贈った安物の紅玉のノリゲしか身につけない。正式な側室となってから、彼は幾度となく高価なノリゲを贈ったけれど、オクチョンはいつもあの二人にとっては想い出のノリゲしか身につけていない。
 あのノリゲが彼女にとっていかに大切なものであるかを示してもいるが、相変わらず、無欲な女だと思う。
 王妃を誘わないのであれば、オクチョンを誘おうか。そんな考えもちらりとよぎった。
 だが、今はオクチョンとは何となくよそよそしい雰囲気なのを思い出し、結局、一人で庭園に行くことにしたのだ。
 原因は、そもそも世子冊立の儀式についてだった。ユンを誰が抱くのかという些細な―まあ、この国の世子を決める儀式だから、些細でもないかもしれないが―ことが原因で、オクチョンと口論になった。
 王妃は国母ゆえ、たとえ産みの母がオクチョンだとて、王妃がユンを抱いて儀式に臨むのが当然だと粛宗は考えていた。だが、オクチョンは自分がユンを抱くべきだと主張した。
 今もその考えは変わらない。王妃が道理を心得た控えめな性格なのが幸いして、ユンを抱くのは生母のオクチョンとなった。粛宗から事の次第を聞いた王妃の方から
―王子を抱く役目はやはり、生母の禧嬪の方がふさわしいと存じます。何と言っても、ユンを産み奉った一番の功労者は禧嬪ですから。
 実にあっさりと身を引いた。
 そのお陰というべきか、たいしたもめ事にもならず、事は片付いた。改めて王妃の謙虚さと思慮深さに感じ入ると共に、感謝した出来事だったのだ。
 すべては解決し、粛宗が待ちわびていたわが子の立太子を無事終えた。後は禧嬪と仲直りをするべきだと思う傍ら、なかなか素直になりきれないもう一人の自分がいる。今回のことはいわば、夫婦喧嘩だ。どちらから謝るかなど些細なことで、自分からいつものように?自分も意地を張りすぎた?と素直に認めてしまえば良いものを、それができなかった。
 何となく声をかけにくいとでも言おうか。だが、オクチョンとの間にはユンという息子も生まれている。両親が仲違いするような雰囲気は子どもの情操教育にも良くない。
 粛宗の父顕宗は母の他に妃を持たなかった。歴代王の中では極めて珍しい人だった。だからというべきか、夫婦仲は良かったが、どちらかといえば大人しい父は気の強い母に頭が上がらず、下世話にいえば?妻の尻に敷かれて?いたように子どもながら見えたものだ。
 日が経つにつれて、余計に声をかけにくくなる。ここは何と言って歩み寄るべきかと粛宗が考え込みながら歩いていたときのことだ。
 さほど遠くない場所から、話し声が聞こえてきた。女官同士の他愛ないやり取りであろうか。そう思って視線を人声のする方に向けた時、彼は息を呑んだ。
 先刻まで彼が頭を悩ませていた夫婦喧嘩の張本人―オクチョンが年若い少女に優しく問いかけている。少女が地面に座り込んでいて、オクチョンは腰を屈め、少女の顔をのぞき込んでいた。
 どうやら、少女が転んで泣いていたところ、オクチョンが遭遇したようである。
 粛宗はまた新たな溜息を零した。もちろん、あの美しい少女を彼は知っている。―どころか、あの年端のゆかぬ少女は彼自身の側室候補として後宮に送り込まれてきたのだ。
 王妃の実家ミン家からの意向であれば、気が進まぬが受け入れぬわけにはゆかない。とはいえ、当初は側室としてといわれ、流石に断った。粛宗は二十八歳になった。あの少女セウォルはやっと十三歳だという。年の差としてはそこまで問題はないのかもしれないが、まだ子どもといって良い少女を閨に招く趣味は粛宗にはない。
 またセウォルは王妃の姪に当たる。過去、後宮に姉妹や叔母、姪で同じ王に側室として仕えた例がないわけではない。しかしながら、これまた粛宗には身内間で一人の王の寵愛を競わせるなど、自分の後宮では到底受け入れがたかった。
 それでも相手方は諦めず、今度は嫁入り前の行儀見習いという形で王妃の許に置いて欲しいと言ってきた。ただし、その嫁入り先というのは王室であり、婿は粛宗その人だとは明白だ。が、行儀見習いといわれて義理の姪を拒むことはできなかった。
 彼としては、これ以上、側室を持つつもりはない。前王妃との間の第一子を喪って以来、子宝には自分は縁が薄いと思い込んできたけれど、世子も授かった。いずれ、セウォルは彼女にふさわしい歳恰好の王族男子に嫁がせる目算でいた。
 泣いているセウォルを懸命に宥めているオクチョンを粛宗は眼を細めて見つめた。
 この女は昔と変わっていない。どうして、そのことに気づかなかったのか。
 彼が初めてオクチョンと出逢ったのは町中の火事場であった。彼女が身を寄せている伯父の屋敷が火事になり、オクチョンは使用人の幼い少女が燃え盛る屋敷の中に取り残されていると言い、焔の中に飛び込もうとしていた。自分の身にも危険が及ぶことなど顧みず、ただひたすら幼い下女の身を心配し守ろうとしていた。
 粛宗の眼には十七歳のあのときのオクチョンと今、眼前でセウォルに優しく話しかけている彼女が自然に重なっていた。あれから十三年経った今も、オクチョンの本質はいささかも変わってはいなかった。
 オクチョンの母が奴婢なのは、彼女の責任ではない。母大妃の思惑やオクチョンに対する口さがない噂に惑わされ、自分はいつしか彼女の?真の顔?を見られなくなってしまっていた。
 オクチョンは女官として宮殿に入った当初、まだ粛宗の正体を知らなかった。秘密の逢瀬に戸惑い、それでも胸ときめかせていた少女のオクチョンは、いつも白い頬を薔薇色に染めて黒い瞳を輝かせていた。
 あれから思えば長い年月が経過し、自分もオクチョンも共に立場が激変した。殊に彼女は特別尚宮から淑媛、ついには嬪にまで昇りつめ、この国の世子の母となった。