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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第三巻

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 その帰り道、庭園からつづく小道が石畳に変わった場所に差し掛かったときである。少し離れた前方で、すすり泣きが聞こえた。押し殺したような泣き声は、聞くだけで心が痛むように哀しげだ。
 オクチョンは振り向き、背後の申尚宮と顔を見合わせた。
「若い女官でも泣いているのでしょうか」
 申尚宮が言い、オクチョンは頷いた。
「放っておけないわね」
 なおも進むと、果たして、石畳にぺたりと座り込み、一人の少女が泣いていた。両手で顔を覆って、しゃくり上げている。ただし、女官ではないのはひとめで判った。
 身に纏っているのは、華やかな仕立ての豪華な衣装である。牡丹色のチョゴリと紅梅色のチマに身を包んだ姿は、さながら今の季節に花開く桜のようだ。
「どうしたの?」
 オクチョンが優しく問うと、泣き声がピタリと止んだ。
「走っていて、転んだの」
 か細い声が聞こえ、次いで少女が顔を上げた。涙の粒を宿したその瞳は冴え冴えと輝いている。その愛らしくも美しい面立ちは、オクチョンが今、心でともすれば敵と見なそうとする女性にうり二つであった。
 少女は十三歳ほど、この年でこれだけ美しいのであれば、あと数年経てば、いかほど美しくなるか空恐ろしささえ感じる。同性のオクチョンさえ感じるのだから、異性から見れば、どれだけ心をそそられるか。
 王妃が咲き誇る今が盛りの白梅ならば、この少女はまだ膨らみ始めたばかりの紅梅の蕾だ。王妃によく似た面差しで、この年頃の少女といえば、たとえ顔を見たことがなくともオクチョンはそも誰かは判った。
 複雑な想いはともかく、相手はまだ年端も行かぬ子どもだ。オクチョンはしゃがみ込み、少女と同じ眼線になった。
「どこか怪我は?」
 少女は小さくかぶりを振る。
「そう。それは良かったわ。でも、殿舎に戻ったら、もう一度ちゃんと怪我がないか見てみましょうね」
 優しく言い聞かせ、手を差し伸べる。その手に小さな手が重ねられた。少女はオクチョンの手に縋って立ち上がった。
 そこからは二人で手を繋ぎ、歩く。中宮殿はかなりの距離があるため、オクチョンは近くまで少女を送っていくことにしたのだ。中宮殿の建物が見えるところまで連れてゆき、オクチョンは微笑んだ。
「ここまで帰ってきたら、後は一人で大丈夫よね?」
「はい」
 少女は元気よく頷き、オクチョンはあまりの愛らしさに眼を細めた。考えれば、自分にはこの歳の娘がいたとしても何の不思議はない。改めて娘を授かりたかったと未練がましい想いがわき上がった。
「あの」
 少女が言いかけ、頬を上気させた。その黒い瞳には年上の女性に対する憧れが強く表れている。
「なあに?」
 オクチョンが微笑みかければ、彼女ははにかんだように笑った。やはり、よく似ている。
 その笑顔は王妃がまだ十代の頃、よく見せていた表情にそっくりだ。妹だと言っても通るだろう。
「お姉さまとお呼びしても良いですか?」
 その問いには、背後のミニョンがたじろいだ。
「そなた、このお方をどなたと心得ているのだ! この方は畏れ多くも世子邸下のおん母君、禧嬪さまで―」
 語気鋭く言いかけたミニョンをさっと制し、オクチョンは口早に言った。
「良いのよ、そう呼びたければ呼んでちょうだい。ただ、私はもう年寄りだから、あなたからすれば、お姉さまではなく、おばさまよ」
 少し自嘲気味に言うのに、少女は真顔でぶんぶんと首を振った。
「お姉さま、とても綺麗だもの」
 ふふっと、オクチョンは笑った。娘ほども年の違う年下の少女に褒められ、くすぐったいような気分だ。
「ありがとう。気をつけて帰ってね」
 笑顔で手を振れば、少女もまた満面の笑みで手を振り返した。お行きなさいというように頷くと、彼女はちょこんとお辞儀をしてから踵を返し、今度は振り向かずに中宮殿目指して駆けていった。
 オクチョンは笑った。
「あんなに走ったら、また転ぶわ」
 ミニョンの隣に立つ申尚宮が控えめに問うた。
「中殿さまにご挨拶なさらなくて、よろしいのでしょうか、禧嬪さま」
 オクチョンは低い声で言った。
「そうね、本当はそうするべきだけれど、今日のところは失礼しましょう」
 特に王妃と仲違いしたわけではない。冷戦中なのは、あくまでもスンの方だ。けれど、最近のオクチョンは、どうしても王妃と逢う気がしなかった。王妃に原因はなく、ただオクチョンの心の持ちようが逢いたくないと思う理由だ。
 ともすれば、王妃を恨みたくなるこの気持ち―嫉妬が邪魔をして、素直になれない。
―傲慢な禧嬪張氏がついに国王殿下の寵愛を失った!
 ここのところ、宮殿では、そんな噂がさも面白おかしく語られているそうな。あれほど禧嬪に夢中であった王は今や王妃に夢中で、中宮殿で過ごす夜が重なっている。
―このままでいけば、近い中に王室に慶事があるやもしれぬ。今度こそ賤民の血を引く王子ではなく、由緒正しい功臣の家柄の血を受け継ぐ歴とした王子ご誕生も夢ではないぞ。
 早くも王妃懐妊を真しやかに語る者までいるという。
―もし中殿さまが王子をお産みになれば、今の世子さまを廃して、当然、嫡出子である中殿さまのお子を次の王に立てるべきだ。
 などと、世子となったユンの廃位まで口に出す者がいると聞き、オクチョンは余計に気持ちが冷えてゆくのはいかんともしがたかった。
 そんな中で、当の王妃の顔をまともに見られる自信は、オクチョンにはなかった。
 先刻の美少女は、王妃の姪に当たる。名は確かセウォルとかいったか。王妃の兄の娘だとかで、名目は行儀見習いで宮仕えに上がったのは、大妃崩御の少し前になる。
 ただ女官のお仕着せを着ているわけでもなく、美々しい衣装を着ているところを見れば、宮仕えというのは単なる名分にすぎないのは誰でも判る。そう、セゥォルは粛宗の側室候補としてミン家から送り込まれてきたのだ。
 王妃の実家は王室の外戚となるべく期待をかけて送り出した娘が懐妊できないと知るや、今度は別の娘を手駒として送り込んできた。つまりは、そういうことである。
 王妃の手許に置いておけば、セウォルが粛宗の眼に止まる確率は格段に高くなる。いまはまだ幼すぎるが、あと一、二年の中にはセウォルも成長して夜伽ができるようになる。その時、恐らく王妃から推薦という形でセウォルは王の側室として献上される。
 誰が言わなくても、明かな図式だ。今まで粛宗の後宮は王妃とオクチョンの二人しかいなかったが、あと少しすれば、更に若い側室が一人加わるに違いない。
 オクチョンは溜息をついた。今度は妹ではなく、娘のような年若い側室とスンの愛を競うことになるのか。考えただけで、この場から逃げ出したい衝動に駆られそうだ。
 無意識に足下の小石を絹の刺繍靴で蹴る。二十歳近く歳の違う若い娘と一人の男の寵を争う。あまりに浅ましいと思ってしまうのは、自分だけだろうか。
 こんな日が来るとは、考えもしなかった。スンの側にいるために大勢の女たちと愛を分け合うのを覚悟したあの日が随分と遠く感じられる。その分だけ、彼との距離も隔たってしまった。