短編集45(過去作品)
夕凪
夕凪
水沼豊は、小さい頃都会で育った。容赦なく吹き出す工場からの煙を見ながら育った。煙は、風がない日はまっすぐに上に上がっていく。それを見つめながら学校から帰っていると、距離感を感じなくなってくる。
水沼氏にとって、大きなものへの関心はそれほどある方ではない。だが、近くにある工場だけは関心をそそられたのだが、煙突から噴出す煙に多大な影響があったことを大人になって気がついた。
工場を見渡せるところに川があった。決して綺麗な川ではないが、よく友達と釣りに出かけたものだ。釣れても持って帰るわけではない。そのまま逃がしてやる。釣りという雰囲気を楽しむだけだった。
川の向こう側まで、どれくらいあったのだろう。石を投げても届かなかった。子供だったので当然、それほど遠くまで投げられるわけもない。必死になって投げていた。
「えいっ」
「そんなに力むことはないさ。普通に投げればいいんだ」
一緒に石を投げていたのは父親だった。普段は厳格なのだが、時々、変わったことをする。子供心に、
――一体どっちが本当のお父さんなんだろう――
と感じたものだ。
川べりにいるのは夕方が多かった。昼間にいることもあるのだが、そんな時は川面に反射した日光の眩しさに閉口したものだ。夕方でも、反射が強いこともあったが、見ていると目が離せなくなってしまうことがあるので、目に悪いのは分かっているだけにあまり川に近づきたくない時期があった。
それはきっと川に魅せられる前だっただろう。川の土手に横になり、目の前の煙突から吹き上げる煙を見ていると、身体から余計な力が抜けていくのを感じた。乾いた金属音が聞こえてきて、身体に響いているような錯覚を覚える。
中学に入ると、郊外に家を建てた関係で、少し田舎に引きこもってしまった。田舎というより新興住宅地なので、何もないところだった。
――こんなところに住むんだ――
とがっかりしたものだ。
家を持てたとしても、これほど不便で何もないところであるなら、都会の方がまだよかった。小さな家だったが一軒家、友達も遊びに来ていたし、それなりに楽しかった。引っ越してしまうとまた新しい友達を作らなければいけない。しかも場所は新興住宅地、ほとんどの人が新参者である。それだけに、少しでも早くこの土地に来た者が古株だという意識が強いのだ。遅れた方も意識してしまい、自然に上下関係ができてしまう。
――こんなのでいいのだろうか?
疑問に思ったが、中学生のような背伸びしたい年頃にはよくあることで、いちいち気にしないのもまだ成長過程だったからだろう。
田舎の川にもよく釣りに出かけた。小さな川のまわりを大きな森が囲んでいる。風が吹くとサラサラとこすれる音が聞こえ、川のせせらぎと一緒に爽やかなハーモニーを奏でている。
――田舎っていいな――
そう感じるのは川のせせらぎを聞いている時だけだった。釣り糸を垂れながら見上げた空は果てしなく広く、どこまでも透き通っているかのようだった。まるでトンビが飛んでいるような雰囲気があり、少しだけでも見上げていると目が回りそうである。
あるいは少しだけと思っていても実際には長い時間だったのかも知れない。それだけ都会から比べれば新鮮だった。
――田舎は何もない――
確かに何もない世界ではあるが、慣れてくればそれほどでもない。慣れるまでが大変で、水沼氏も類に漏れずだった。
それでも都会を思い出す。都会のすべてというよりも思い出すのは、川の土手から見た工場だけだった。
――臭いが忘れられないのかも知れない――
工場の独特の臭い、忘れたくても忘れられないのは、身体に染み付いているからだろうか。
「お前、何か臭いな」
都会から来た連中でも、工場の近くに住んでいた連中とは限らない。だが、彼らには水沼氏の臭いが工場独特の臭いであることを知っていて、自分たちとは違った雰囲気を持っていることを知っている。自分たちは上品で、水沼氏は少し劣ったところがあると感じているのだ。
確かに水沼氏の住んでいたところは、お世辞にも上品なところではなかった。夜遅く電車に乗れば、必ず酔っ払いに出会っていたくらいだ。
彼らは同じ言葉を繰り返しながら次第に声が大きくなっていく。
小学生の頃、熟に通っていた水沼氏は、遅い時間に電車に乗ることも多かった。酔っ払いの姿を何度見たことか。
彼らはOL風の女の子を見つけると近寄っていく。淫らな気持ちというよりも、逆らうこともなく聞いてくれるところに目をつけたのだと思っていた。しかし、大人になって考えると、それも少し違うのかも知れない。
「ああ、いえ、その……」
酔っ払いの話す内容は、意外と難しいことも多い。政治の話題などを繰り返し話している。相手の女性も、声はいかにも嫌がっているのだが、どう返事していいのか困っている。それが狙いなのだろう。話していてゾクゾクするに違いない。別に女性に対して如何わしいことをするわけではないが、ある意味、女性にとってはセクハラ行為に勝るとも劣らないほどの苦痛を与えているのかも知れない。
都会の生活に慣れていると、田舎の人間は実に誠実な人が多いと感じているだろう。しかし、それは甘かった。中学の頃に感じた田舎への思いは、上下関係と規律のようなものを勝手に作り上げていて、人一人の力ではどうにもなるものではなかった。言葉できつくなくとも現われる態度は露骨である。
「田舎は閉鎖的なところがあるからね」
父と母が話していた。まさしくそれは子供であっても感じている。しかも子供の方が露骨ではないだろうか。
まわりが閉鎖的なら自分まで閉鎖的になる。結局自分だけだと思ってしまうと、一人だけの時間が増えてくる。そんな時に出かけるのが近くの川だった。
今住んでいる新興住宅地も人が増えてくると、急速に都会化していくかも知れない。だが、その中でも川だけはこのままの姿でいてほしいと願う。釣り糸を垂れながら見上げる空の青さを当分忘れることはないだろう。
――あまり眩しくなくてちょうどいい――
風が爽やかで、せせらぎが聞こえるほどの静寂の中、眩しくないのは好都合である。時間を忘れてみていることができるほどだ。
一週間忘れなければ一ヶ月、一ヶ月忘れなければ一年、一年忘れなければ……
というように、永遠に繋がっていくように思える。きっとそれは水沼氏が忘れっぽい性格だからであろう。段階を組んで考えないとすぐに忘れてしまうのが自分で分かっているからだ。
遊んでいるのはほとんどが川の上流である。一般的に皆が川を見るのは中流に掛かっている橋から見下ろすところだろう。中流くらいまでくると、水の量はそれほど多くなく、石を敷き詰めた広っぱのような川原に出てくる。そこに橋が架かっているのだが、夏の時期になると、川原でバーベキューやキャンプなどができるほどの広さである。普段は子供たちが遊んでいるだけで、川に向って石を弾ませて遊んだものだ。
橋の上から時々女の子が覗いていた。
作品名:短編集45(過去作品) 作家名:森本晃次