短編集45(過去作品)
「どうしたんだい?」
見てはいけないものを見てしまったかのように目を逸らそうとしたが、逸らすことができなかった。相手がもし泰子ではなく他の女性だったら目を逸らしていただろう。きっと真剣に泰子のことを考え始めていた証拠だったに違いない。
言葉にならないような声で泰子が話し始めた。
「私、実は離婚経験があるんです」
今どき離婚経験のある女性など珍しくもない。だが、彼女に聞きたいのはそういうことではない。まだじっと見ている泰子の身体には、無数にミミズ腫れのような傷跡が残っているのだ。
「前の旦那さんから受けた傷なのかい?」
「ええ、そうなんですの。だから今まで男性とお付き合いしようなどと思ったこともなかったですし、特にこの身体を見られたくない気持ちが強かったんです」
「でも、僕には見せてもいいと思ってくれたんだね?」
「あなたには、もう隠しておけないと感じたんです。私のすべてを知ってほしいという思いが強かったのね」
そういって笑顔を見せた。その顔は引きつっているわけではない。むしろサッパリした笑顔に見える。
泰子の笑顔にはかなり助けられた。じっと見ていたのだが、
「あなたは私の傷を見て、目を逸らさなかったわね。それが私には嬉しいの。思い切って見てもらおうと思ったことは間違いじゃなかったわ」
泰子が抱きついてくる。
「今までに何度か他の男性に見せたことがあるのかい?」
「あなたに出会うまでに、二、三度だけね。それだけ寂しかったの。でも皆反射的に目を逸らしたわ。そのせいで私は次第に男性恐怖症になって行ったの。そして、もう二度とこの身体を他人には見せないだろうと思ったの」
「でも、僕には見せたかった?」
「ええ、どうしてそう感じたのか分からないけど、あなたはきっと私のすべてを受け入れてくれるって気がしたのよ」
嬉しかった。心の底から求められている気がしたのだ。
――一人の女性を普通に思っていただけなのに、やはりお互いに求め合っているんだな――
と思っただけで、彼女のすべてを知ったように思えたのだ。
しかし、彼女への扱いは難しい。
――ドメスティック・バイオレンス――
いわゆる性的虐待である。実際にどれほどの虐待を受けたのか分からない。そして、彼女がどれほど打たれ強いかも分からない。詳しく聞くわけにもいかず、泰子が自分から話してくれれば別なのだが、それを求めるのはあまりにも酷である。
いくら泰子が俊介に気を許しているとはいえ、心の中にわだかまっているトラウマが、いつ出てくるか分からない。急に叫び出してものすごい力で弾き飛ばされるところを想像しただけでも恐ろしい。
かといって、特別な人間として見るのも、却って彼女を自分の殻に閉じ込めてしまう原因になりそうだ。
――僕は心理学者でも、神経科の医者でもないんだ――
腫れ物に触るように大切に扱いながら、差別的な態度を取ってはいけない。分かっているが、これほど難しいことはない。薄氷を踏む思いとはまさしくこのことだろう。
「何を考えているの?」
「僕はいつも何かを考えている方だからね」
相手が期待している答えになっていないだろうが、とにかく何かを答えることが大切だと思った。
「いいのよ、あなたの考えていることは分かっているわ。でもね、私は何となく今まで思ってきたことが、今日叶えられるような気がして仕方がないの。漠然としてだから、言葉にはできないんだけどね」
そういって、はにかんで見せた。
――普段の自分を出すしかないのかな――
とはいえ、さすがに一線を越えるまではなかった。何をどうしていいのか分からない状態ではあったが、自分としてはかなり落ち着いている。ここまで落ち着いて考えられるのも、
「満たされたい」
という意味を考えていたからだろう。
決して淫靡なだけの意味ではなかったはずだ。
――僕の心で満たしてあげたい――
と思ったとしても不思議ではないと感じている。そして、泰子を満たすことで自分の中にあったトラウマも見えてくるように思えてきたのだ。
――なぜこんなに寂しいのだろう――
この思いはかなり前にも感じた思いだ。
それは十年前に感じた思いだった。寂しさというだけでなく、あの時は切なさも一緒だった。
友達の葬儀が思い出されるのだ。人の人生がこれほど儚いものだということを思い知らされた瞬間だったが、ちょっと違っただけで、彼は死ななくてもよかっただろう。その瞬間、たまたまそこにいただけでこの世と訣別してしまう。
たったそれだけのことで、どれだけの人間の心に影を落とすことだろう。運命なんて、一寸先は闇である。
だが、逆も言える。
――これが彼の寿命だったんだ――
もし、その時に事故が起こらなかったとしても、彼はどこかで死んでいたんだという考え方である。信憑性がなくもないが、そうなると、大きな事故だっただけに、集団で一緒に死んだ人たちも皆それぞれどこかで命を亡くしていることになる。そう考えると世の中にある偶然と言われることは、すべてが筋書きの中の必然性に思えてならないのだ。
そういえば、俊介自身も、偶然に難を逃れたことがあったような気がする。
「君は実に運がいい」
と言われたのを覚えているが、言われてもあまりピンと来ることはなかった。事の重大さということに気付く歳ではなかったように思える。きっと生まれ持っての強運の持ち主なのかも知れない。
「私、結婚する前に付き合っていた男性がいたんです。その人は私と同じ歳だったんですけども、優しい人でした。明るい人で、何よりもよく私のことを分かってくれる人だったんです」
「いい人だったんですね」
「ええ、その人は私の中にもう一人私が存在していることを指摘してくれたんですよ。それまで自分というものが分からなくて、身体と心が不安定だった頃の指摘だったので、まさに目からウロコが落ちるような感覚でしたね」
――もう一人の自分――
この感覚はずっと俊介も持っていた。そしてそれを思い知ったのが、ちょうど二十歳の頃ではなかっただろうか。
泰子は続ける。
「それを言われて、初めてその人に心を許したのをハッキリと覚えているんです。その新鮮な気持ちをあなたに出会って思い出したような気がするの」
「それは光栄です。僕もあなたを最初に見た時から、初めて出会ったという感じがしませんでしたよ」
「まあ、それは嬉しい。実は私もそうなんですの」
「お互いに同じ思いだったんだね。でも、本当にどこかで顔を合わせているように思えてならないね」
泰子はそれを聞くと大袈裟に頭を上下に振った。
「でも、結局結婚はできなかったんです。それから出会ったのが、前の夫でした。最初は優しかったんだけど、急に変わっていってしまったの」
「どうして変わっていってしまったんだい?」
「ハッキリとは分からないけど、一度だけ暴力を受けている時のものすごい顔をしている時に言われたことがあったの」
「どんなことを?」
「お前を見ていると、暴力を振るいたくなるんだ。俺を恨むんじゃないぞって……」
何と勝手な言い分だろう。相手の男の凶暴性があらわになっている瞬間ではないか。それこそ、
――そんな言い訳が通用するなら、警察はいらない――
作品名:短編集45(過去作品) 作家名:森本晃次