短編集45(過去作品)
表に出る月
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伊藤やよいは今複雑な心境でいる。
「この身体の変調は何なのかしら」
今までに味わったことのない胸やけ、嘔吐に吐き気、一体どうしたというのだろう?
今までは、自分の身体は自分が一番知っているというつもりでいた。今もそう思っている。
やよいは五年前にパートに行っていた時に知り合った人と結婚した。交際期間は半年もなく、
「あなた、しっかり考えたの?」
とよく言われるが、あまり長く考えるのも迷いが深くなるばかりで、インスピレーションを信じるのも大切ではないだろうか。特に考えすぎるきらいのあるやよいは、大切なことほどあまり考え込まないようにしている。
実際に今まではそれで成功してきた。結婚にしても同じだろう。
――きっとうまくいく――
という考えに迷いはなかった。
夫は優しい人だったが、仕事が忙しいせいか、冷たさも感じる。仕事の話をあまりしないのは、自分に余計な心配をかけさせたくないために気を遣ってくれているのだろう。
だが、逆の考え方もできる。ゆっくりしたいのに仕事を思い出したくないはずである。足が攣った時、まわりの人に変な気を遣われたくないと思うことがあるが、その心境に似ている。冷たく感じる時は、仕事の顔を持ったまま家に帰ってきた時なのかも知れない。
結婚当初はいろいろと話題もあった。くだらない話も笑顔で話せたのだが、最初の頃から比べて夫の方が明らかに会話を避けるようになっていた。
元々が口下手で、付き合っている頃や新婚当初は合わせてくれていただけだということにようやく気付いた。自分が浅はかだったのは間違いないが、そのあたりで心境の変化があったのは紛れもない事実である。
夫の康友と知り合ったのは、夫が失恋したちょうど後だったようで、友達とスナックに呑みに来ていた時だった。人から相談事を持ち込まれることの多かったやよいは、その日も親友の聡子から仕事についての悩み相談を受けている時だった。
恋の悩みと、仕事の悩みと、相談を受ける側ではどちらが気が楽かといえば、断然仕事の悩みについてだろう。百人いれば九十五人まではそう答えるに違いないと思っている。
悩みに対し、適当に答えられるのも問題だろうが、相談されて真剣に考え込まれても、相談した方が変に気を遣ってしまう。その点、やよいはそれほど深く考えているわけではないのに、適切なアドバイスをすることができる。それが相談する方にとっての安心感を与えるのだろう。
やよいとすれば複雑な心境でもあった。
――私の悩みは誰に相談すればいいの――
と言いたかったが、相談されるうちが花かも知れないと思うことも決して間違いでもない。人の相談に乗ることで自分を振り返ることができるのも事実で、悪いことではないはずだ。
相談を受けていた店は、相談者が行きつけの店で、やよいが来るのは初めてだった。こじんまりとした店内は、相談を受けるにはちょうどいい広さで、表の寒さも店内に入るとすぐに忘れてしまうほどの暖かさであった。
「なかなかいいお店知っていますね」
「ええ、ここはお客さんの質もいいので、結構お勧めなんですよ」
相談というよりも一方的に話しまくった感じの友達だったが、話せば気も楽になるものなのか、サッパリした顔になっている。そこが恋の悩みとの大きな違いではないだろうか。
最初に店内に入った時は誰もいなかったが、あまりにも堰を切ったような話し方に気を取られて、まわりがまったく見えていなかった。
話が終わってホッと一息、時計を見てみた。時間にしてゆうに二時間はたっぷりと話を聞いていた計算になるのだが、
――あっという間だったわ――
と思えてならない。
やはり暗い店内、時間の感覚が麻痺するのも仕方のないことではなかろうか。確かに仕事の相談だと気は楽なのだが、そのかわり聞きたくもない上司の愚痴も聞かなければならず、自分の中で抱いているイメージが壊れてしまいそうで嫌になる。
――あの人はそんな人じゃないわよ――
心の中でいくら叫んで目で訴えてみても、結局自分の世界に入ってまくし立てるように話している相手に通じる常識ではない。聞いていて余計な体力を使ってしまう。
そんな話もやっと終え、
「話を聞いてもらったので、吹っ切れた気がしました。ありがとうございます。さあ、呑みなおしましょう」
と言って、一気に水割りのコップを口元に持っていき、喉を鳴らしながら呑んでいる。実においしそうだ。
やよいはというと、気持ちが落ち着いたこともあって、あたりを見渡してみた。暗い店内がさらに暗く感じたが、奥の方を見ると先ほどまで誰もいなかったはずのテーブル席に男が二人座っていた。
二人とも気配を消していたのか、それともこちらの雰囲気に圧倒されてしまったのか、静かに呑んでいる。
そのうちの一人の男と目が合った。その男は最初目が虚ろだったが、目を合わせた瞬間に何とも言えない笑顔を見せた。
それは子供のようなあどけなさがあり、まわりに漂っている暗さとはまったく違う雰囲気を醸し出している。元々くらい雰囲気を作った本人なのかも知れないが、目が合った瞬間からそんな雰囲気は一切感じさせなかった。
――その時の男がまさか今の主人になるなんて――
何度感じたことだろう。そう、まさしくその男が康友だったのだ。
その場でどのようにして話を始めたかなどあまり覚えていない。確か相手の方から話しかけて来たはずだったが、話が弾んだような気もしなかった。楽しい話をしようと一生懸命な姿に打たれたのだけは事実だった。
それから付き合うようになったのだが、彼の子供のようなあどけなさがどこから来るのか探していたような気がする。
康友は、自分のことを隠そうとはしない。
――相手に知ってもらいたい――
その気持ちが最初に来るから、相手も話ができるのだろう。自分を隠して相手のことばかりを知ろうとすると、ただの詮索好きになってしまう。康友はそんなことのない男だった。
失恋が人を変えてしまったのかも知れない。元々暗い性格だったためか、立ち直るまでに時間が掛かったが、それでも開き直りが早く、そのためにあどけない表情を自然にできるのだということが分かってきた。
付き合い始めてから結婚までにそれほど時間が掛からなかったのは、性格というよりも相手の気持ちを分かるのにそれほど時間が掛からなかったからだ。
そんなやよいも、結婚して専業主婦となった。
夢にまで見た新婚生活。思ったよりも居心地がよくて、最初の頃はまるで夢を見ているようだった。だが、元々が社交的な性格、近所の人にもすぐに馴染めるだろうと思っていたが、さすがに主婦という人種は今まで自分が接してきた会社の同僚たちとは明らかに違っていた。
お世辞を平気でいうくせに、心の中では正反対のことを考えている。疑うことを知らないやよいにとって、そのことに気付くまでは先の見えない不安でいっぱいだった。昼のドラマなどでよく見る光景だが、まさか自分に降りかかるなど思ってもみなかった。
作品名:短編集45(過去作品) 作家名:森本晃次