小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

INDEX|9ページ/48ページ|

次のページ前のページ
 

「では、運命が変わることもあり得るのですか?」
「そうだな。絶妙の間合いで予期せぬ出来事が起これば、それがきっかけで運命の流れも変わることは確かにある。裏腹に、誰がどうしても変えられぬ運命、それを不動の運命という」
「では、中殿さまのこの度のご不幸は覆せぬ悲劇であったと」
「声が高い」
 大王大妃は叱るように言い、声を低めた。
「そなたのお人好しは変わらぬな。普通、後宮暮らしが長くなれば、人は変わるものだが、そなたは相変わらず浮き世離れしている」
 小さく笑い、大王大妃は表情を引き締めた。
「今は他人の心配よりはまず我が身を守ることを考えよ」
「我が身を、ですか?」
 オクチョンは眼をまたたかせ、本気で訊ねた。
「何故、私が身の心配をする必要があるのでしょう?」
 大王大妃がハッと呆れたように声を洩らした。
「判らぬか。中殿が亡くなり、誰が一番得をするか。後宮では誰かが亡くなれば、次に得をするのは誰か、常に考える必要がある」
 オクチョンは真顔で応えた。
「判りません。誰かが死んで、誰かが得をするだなんて。普通は人が死ねば、哀しみしかないはずです。私はそういう考え方をしたことがないので、本当に判りません」
「そなただ、オクチョン」
「え?」
 オクチョンは指を突きつけられ、茫然と大王大妃を見返すしかない。
「後宮中、いや王宮中の人間が考えているぞ。中殿が亡くなりし後、いちばん得をするのは張尚宮であると」
「馬鹿な」
 オクチョンの桜色の唇が戦慄いた。
「そんなはずがありません。大王大妃さまは、私をそのような見下げた人間だと思し召していたのですか? 私は誰かの死を願ったり、ましてや歓んだりしたことは生まれてこのかた一度もありません。それだけは天に誓って申し上げます」
 涙声になったオクチョンに、大王大妃は宥める口調で言った。
「勘違いするでない。何も私がそなたをそのような者だと言っているのではないぞ。私以外の他の人間は知らんがな」
「皆は―私が中殿さまの死を歓んでいると思っているというのですね」
 オクチョンは気が抜けたように呟いた。
「少なくとも表面上は辻褄が合う話ではないか。正室が亡くなれば、側室が得をする。ましてや主上の後宮には中殿とそなたしかいなかった。中殿亡き後、最早主上は誰はばかることなく、そなたを寵愛できる。また国王に妃の一人もおらずでは体面が保てぬゆえ、中殿の喪明けには新たな妃を立てる必要も出てくる。そうなった時、新しい女を捜すより、昔から主上に仕えていたお気に入りのそなたを側室に立てる方がてっとり早い」
「私は」
 オクチョンは悔し涙を堪え、顔を上げた。
「位階を賜りたいと願ったこともないのです。今までも国王殿下は足繁く私の許にお越し下さいますし、本当に今のままで望むものはないのに、何故、そのようなことを皆は考えるのでしょう」
「それは大概の者がそのような邪な欲を持つからだ」
 大王大妃が笑った。
「そなたのようにいささか呆れるほど無欲な者はおらぬ。人は皆、自分が欲深ければ他人も同じだと思うものよ。他人の様は合わせ鏡と昔から言うであろうが」
「―」
 言葉もないオクチョンに、大王大妃が囁いた。
「これからは特に心するのだ。皆がそなたの出方を興味津々で見守っておることを忘れるな。出る杭は打たれるというのがこれまでの後宮のあり方であった。さりながら、これまでそなたに誰も手出しができなかったのは、ひとえに主上の寵愛が殊の外厚かったからだ。とはいえ、王の母たる大妃がそなたを本気で打ちにかかれば、流石の主上もそなたをどこまで守りきれるかは判らぬ。そなたもよう存じておろうが、主上はひとかたならぬ孝行息子ゆえ」
「承知しました」
「ゆめ私の言葉を忘れるでない。そなたを討つ口実を大妃に与えるでないぞ。くれぐれも慎重にな」
 大王大妃はまるで孫娘に与えるように、真摯に忠言をくれたのだった。
 
 その夜、粛宗のお渡りがあると知らされ、オクチョンは常よりは早めに湯浴みと寝支度を調えて王の訪れを待った。
「国王殿下のお越しにございます」
 申尚宮の声が廊下越しに聞こえ、オクチョンは立ち上がった。ほどなく扉が開いて、スンが入ってくる。オクチョンはこれまで座っていた上座をスンに譲り、自分は少し下手に座った。
 スンは座椅子(ポリヨ)に座るやいなや、傍らの脇息を引き寄せ疲れ果てたかのようにもたれかかった。
「流石に疲れた」
 若々しい秀でた顔には拭いがたり翳りと疲労が滲み出ている。
「中殿の葬儀を終えるまでは気を張っていなければならないのに、このまま気を失って永遠に眠り続けていたいほどだ」
「スン」
 大好きな男がこれ以上ないというほど傷つき、うちひしがれている。オクチョンは少しでも彼の傷ついた心を癒してあげたいと思った。けれど、今の自分には不可能であることも判っていた。
「何と申し上げたら良いか」
 妻と幼い娘を立て続けに亡くしたばかりの彼に、何と声をかけて良いものか言葉もない。安易な慰めはかえって空しさを増すだけだろう。
「オクチョン」
 スンの声が震え、黒曜石のような瞳が灯火の灯りを受けて揺れていた。
「王女が死んだ。可愛い子だったのに、私が抱いたときはもう息絶えていたんだよ。まるで眠っているようにしか見えなかった」
 スンはそのときのことを思い出しているのか、まるで赤児を抱いているように両手を差し伸べ、空(から)の我が手を見ている。
「苦しかっただろうのに、やっと長い苦しみを耐えて生まれ出てきたのに。ほんの少ししか生きられなかった」
 スンがふいに両手で顔を覆った。低いすすり泣きが寝所に満ちた静寂に響く。
 オクチョンは堪らず立ち上がり、スンの側にいった。
「哀しみはお察しするわ」
「済まない、そなたに話すべきことではないのに」
 それでも、スンは辛うじて理性を保っているようで、妻子の話をオクチョンにすることに最悪感を憶えているらしい。
 オクチョンは微笑み、スンの両肩に手を回して引き寄せた。
「大丈夫、あなたの大切な御子は、私にとっても自分の子どもと同じようなものだから。どんなにか辛いでしょうね」
 そっと広い背中に手を回して、抱き寄せる。この四年で、スンはまた少し背が伸びた。わずかに少年らしさを残していた体躯も今では完全な大人の男のものになっている。
 オクチョンが手を回しても、到底抱きしめきれないほど逞しい身体だ。今、オクチョンはその彼の身体を優しく抱いていた。
 それは、いつものように熱い欲情にまみれた男女の営みからはほど遠い。あくまでも姉が弟を、母が息子を労るような穏やかな慈愛に満ちた抱擁だ。
 スンはしばらくオクチョンの腕の中ですすり泣いていた。
「あの子は、もういない。中殿ももういない。あの子をこの腕に抱きたくても、もう抱けないんだ!」
 オクチョンはスンの背中を優しくトントンと叩いた。
「お名前はつけたの?」
 優しく問えば、スンは洟を啜りながら頷いた。
「中殿が蘭の花が好きだったから、?和蘭?、それとも縁起が良いから?永蘭?にしようかと話していた。健やかに、いつまでも長生きして幸せになるようにと?永久?の字を入れようかと」
 また涙声になる。