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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「どちらも素敵な名前ね。あなたと中殿さまの姫君だもの、きっと美人さんだと思うわ」
「もう、和蘭には二度と逢えないんだな。あの子がこの世に生まれてきた意味があったんだろうか」
 ややあってスンが呟いた。
「あの子は生まれてこない方が良かったんだ」
 虚ろに響いた声に、オクチョンはハッとした。
 このままでは、この男の心はあまりにも深い絶望と哀しみに壊れてしまう。オクチョンはスンの心を何とか現世(うつしよ)に引き止めようと、スンの眼に視線を合わせた。かつてあれほど輝き、オクチョンを魅了した力漲る黒瞳は今、何も映してはおらず、無限の絶望に塗り込めれられている。
―あなたはこの国の王なのよ、そんな弱気で良いと思っているの。
 例えば、言える言葉はたくさんあるだろう。けれど、妻と娘を一度に喪いうちひしがれているこの男に、どうしてそんな残酷な科白が言える?
「公主さま(コンジュマーマ)が生まれてこない方が良かっただなんて、そんな哀しいことを言わないで」
 スンが涙に揺れる瞳でオクチョンを見た。
「中殿さまは十月十日、公主さまをお腹の中で大切に育てられたのよ? ご自分の生命を賭けて公主さまをこの世に送り出されたの。スンがそんなことを言ったら、中殿さまも公主さまもあまりにお気の毒だわ」
「あの子は俺の娘として生まれてきて、幸せだったんだろうか」
「幸せだったと思うわ。思い出して、中殿さまもあなたも、あんなに愉しみに公主さまのご誕生を待っていたでしょ」
 いつだったか、あれは初夏くらいだった。庭園を散策していたオクチョンはたまたま、散歩中の国王夫妻を目撃したのだ。
 あまり中宮殿を訪れない王ではあったが、王妃が懐妊してからは訪れる回数も増え、御医にも適度な運動を勧められて懐妊中の妻を連れ出すことが多かった。
 お腹の大きな妻と寄り添い、妻を労るようにして歩く粛宗の姿が庭園でよく見かけられるようになっていた。
 美男美女の似合いの国王夫妻は、周囲の美しい景色もあいまって、まるで一幅の絵を見ているようですらあった。その時、オクチョンの心が痛まなかったといえば嘘になる。
 けれど、それ以上に幸福そうなスンの姿が心に強く残った。自分はスンの子を身ごもれず、スンに幸せを与えてあげられない。しかし、王妃は見事にスンの子を授かり、スンはあんなに嬉しげに笑っている。そう思えば、辛さも幾ばくかは報われた。
 その日、海色に深く染まった紫陽花が群れ咲く茂みの前で、スンは丸い妻のお腹を愛おしげに何か話しかけては撫でていた。
 オクチョンはあのときのスンの幸せそうな表情を思い出していた。
「中殿さまの胎内で日ごとに育ってゆく公主さま、その誕生を待っているときのあなたの心を思い出してみて。公主さまはあなたに会うために長い苦しみを耐えて、この世に生まれてきたの。公主さまがあなたの娘として生まれたことも、あなたが公主さまの父親となれたことも奇跡に等しい幸福だった。それを否定なんてしないで、お願いだから」
 オクチョンは立ち上がり、室の窓を開けた。壁に八角形に切り取られた障子窓が填っている。引き戸を一杯に開けると、夜の涼やかな風が入り込んでくる。
 一斉にすだく虫の音が心に染みいってくるようだ。窓の外には数本の青竹とその根本に桔梗が群れ咲いている。細い眉月が清しい紫色の気品ある花をほのかに照らし出していた。
「父が私の幼い頃、亡くなった話はしたわよね」
 オクチョンは窓辺に佇み、月明かりにほのかに浮かび上がる花を見つめた。
 スンからいらえはない。オクチョンは構わず続けた。
「最初はとても哀しかったし、淋しかった。父は私をとても可愛がってくれたから。葬儀の後、わんわんと一人で泣いたわ」
―もう二度と、お父さまに逢えない。
 膝を抱えて泣いていたオクチョンにこんなことを言った人がいた。
―オクチョン、お父さんはずっと生きているよ。
 幼かったオクチョンは愕いて訊ねた。
―お父さまは死んでしまったのに、生きているの?
 その人は笑った。
―肉体は滅んでも、その人の心、魂は生き続ける。オクチョンが忘れない限り、お父さんは生きているんだよ。オクチョンの記憶の中で、心の中で。
 オクチョンにそう教えてくれたのは、父の兄―オクチョンを引き取ってくれた伯父だった。
「そして、伯父はこんなことも言ったの」
 ふいに涼やかな夜風が吹き抜け、庭の竹林がさわさわと葉をそよがせた。
「亡き人が生きているのは想い出の中だけではない。こうして吹き渡る風の音や葉のそよぎ、美しく咲き誇る花の中でもちゃんと生きているって」
 オクチョンは振り向き、スンを見た。
「例えば今は秋だから蘭の花は咲いていないけれど、蘭の花が咲く季節になれば、きっと、あなたは公主さまや中殿さまを思い出すでしょう。あなたが思い出す限り、お二人の記憶は永遠に残り、スンの中で生き続ける。私も父と二人で美しい秋の月を見た想い出が今も強く残っているから、月を見れば父を思い出せるわ。スン、人は死んでも、生きている人の心で生き続けることはできるのよ」
「オクチョン」
 スンは照れたように笑い、手のひらで涙を拭った。
「俺は情けない男だな。オクチョンはこんな話、聞きたくもないだろうのに、弱音を吐き、あまつさえ、みっともなく泣いている」
 オクチョンは真顔で首を振った。
「スン、王さまだって人間だもの。哀しいときは泣くわ。私に何かもう少し、あなたの哀しみを軽くしてあげられれば良いんだけど、話を聞くくらいしかできないから。せめて何でも話したいことは話してね」
「オクチョンが俺の側にいてくれて良かった」
 スンがいつになく気弱な笑みを浮かべる。その儚い笑顔に、オクチョンは胸をつかれた。言葉だけなら、何とでも言える。慰められる。でも、この試練はスンに与えられたものだから、幾らオクチョンが代わってあげたいと思っても、スン自身が乗り越えなればならない。
「もう、自分を追い込むのは止める」
 スンが存外に落ち着いた声音で言った。
「運命と呼んでしまうにはまだ傷口はあまりに生々しいが、きっと中殿と王女の運命は変えられないものだったんだろう。それでも、王女は中殿と俺を両親に選び、この世に生まれてきてくれた。喪った哀しみより、これからは、あの子を授かって父親になれた奇跡に感謝して生きていくよ」
「そうね。中殿さまは今頃、先に逝かれた王女さまを思う存分抱っこされているでしょうね。せめて、お二人が天の国で安らかに過ごされていると良いわ」
 それはオクチョンの心からの願いであった。医療技術の発達していなかった当時、出産は女にとっては?大役?でもあり?大厄?でもあった。お産で生命を喪う女性も多く、また折角生まれても育たない赤児がいた。
 中殿は六日にも渡る難産に耐え抜き、王女を産んだのだ。王女もまた頑張って生まれてきたにも拘わらず、生後数分で息絶えた。二人ともに、あまりに哀しい運命であった。
 オクチョンも同じ女であり、しかもスンという同じ良人を持つだけに、到底他人事とは思えない。女の子とはいえ、夭折した王女は正室腹の粛宗の第一子であった。その損失は王室にとっても大きい。
「今夜は月が綺麗だな」