炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻
「吾子、吾子よ」
初めて王妃の美しい瞳から子を喪った涙が零れ落ちた。まるで獣の咆哮のような泣き声が余計に周囲の哀しみを誘った。王妃に付きっきりの筆頭尚宮は傍らに打ち伏して泣いている。
「どうか息をして下され、吾子よ、どうか」
必死の形相で赤児を揺さぶるのに、王が傍らから妻を止めた。
「王女は長らく苦しみ抜いた。やっと安らかになれたのだから、これ以上苦しめてはならぬ」
「いいえ、私は諦めませぬ。吾子が死ぬなどあるはずがない。御医がそう申しておるのですか!」
?吾子よ、吾子よ?と、王妃は息絶えた小さな王女の身体を揺さぶり続ける。
王妃の取り乱し様は見ていられなかった。物言わぬ骸を抱きしめて号泣する王妃を皆がなすすべもなく見つめている。
突如して、王妃が赤児を抱いたまま倒れた。六日がかりの難産の末、王妃自身も生命を失いかねないほどであったのだ。それがまだ産後間もないというのに起き上がり興奮したものだから、一旦は治まった出血がまた始まったらしい。
「中殿、中殿!」
王が顔色を変えて、倒れた王妃を抱き起こした。
「御医をこれへ。早う!」
王の尋常ならぬ声が事態のただならぬことを何より物語っていた。
その二日後、王妃は眠るように静かに息を引き取った。難産の末、産み落とした王女の後を追うかのような死に急ぎ様に、後宮に仕える者たちは皆、涙を堪えきれなかった。
御年、わずか二十歳の若さである。名門キム氏の息女として生まれ育ち、幼時に現国王粛宗と婚約、大妃と同じく后がねとして大切に育てられた。まさに、産まれながらの王妃といえた。
粛宗とは従姉弟同士でもあり、幼い頃から親しく行き来し、周囲には夫婦というよりは姉弟のようだといわれることも多かった。それでも心優しい王はこの年上の妻を大切に遇し、穏やかな愛情で結ばれていた年若い夫妻であった。
娘に続いて妻を喪った王の悲嘆は深かった。大妃は姪にして嫁であった王妃を実の娘のように可愛がっていた。大妃は王妃の死の翌日から病臥し枕も上がらぬ体となり果て、
―このままでは大妃さままでもが中殿さまの後を追われることになってしまう。
とりわけ大妃殿に仕える者たちは案じることになった。
王妃が亡くなった翌朝、オクチョンは大王大妃殿を訪ね、大王大妃と中宮殿を訪ねた。王妃の訃報を聞き、主立った王族、重臣たちが次々と弔問に訪れている。
大王大妃はともかく、オクチョンの顔を見た中宮殿の女官たちは当然ながら良い顔をしなかった。しかし、用向きが弔問であり、なおかつ大王大妃が一緒とあれば、オクチョンだけを追い返すこともできない。
実はそれを見越して、大王大妃がオクチョンを弔問に伴ったのである。上辺はどこまでも穏やかで権力欲などとも無縁の大王大妃は、淑やかで優雅な老婦人に見える。しかしその下にはしたたかで、策略家の一面もあることをオクチョンは既に知っている。
もっとも、大王大妃は自分のために権力や策略を用いることはない。その点、権力や地位には関心がない清廉な人柄というのは事実だ。大王大妃は四代前の仁祖の継室として、若くして王室に嫁いだ。良人である王からも愛されず、子にも恵まれず、孤独な生涯を生きてきた。
仁祖の後宮には王の寵愛厚い側室たちも多く、大王大妃は中殿であった時代、側室たちには何度も暗殺されかけたという。そんな伏魔殿で生き残るためには、策謀家にならざるを得なかったであろうし、したたかにもなっただろう。さもなければ、今日の大王大妃はここにいなかったはずだ。
王妃の亡骸は既に棺に納められ、その前には立派な祭壇が安置されている。まずは大王大妃が亡き人の御霊に向かって香を手向けて深々とお辞儀する。続いてオクチョンはその場に端座して頭を床にこすりつけ亡き人に哀悼を示した。
オクチョンが拝礼を行っている間中、祭壇の傍らに立つ喪服姿の尚宮がオクチョンを憎悪のまなざしで見つめていた。例の王妃の第一の側近である楊尚宮である。
弔問を終え、オクチョンは誘われるままに大王大妃殿に立ち寄った。大王大妃の居室で二人だけになり、ふるまわれた冷たい茶を飲んで、漸く人心地がついた。
大王大妃も既に茶を飲み終え、何事か物想いに耽っているようである。オクチョンは下座に座り、大人しく大王大妃が話し出すのを待っていた。
ほどなくして、大王大妃が吐息を漏らした。
「私は大妃が嫌いだ」
温厚な大王大妃がこのようなことを口にするのは珍しい。オクチョンは余計な口を差し挟まず、更に続きを待った。
「これが他愛ない出来事なら、大妃が打撃で枕も上がらぬと聞けば、良い気味だと溜飲が下がるところであろうが」
「本当に、思いも掛けないことでした」
他に言うべき言葉も見あたらない。しかし、それはオクチョンの本音であった。この世の別離はある日、突然やってくる。王であろうと平民であろうと、死という厳粛な事実には逆らえず、受け入れるしかない。
しかも、死は年老いた者から順番にというわけでもなく、今回のように幼い王女が旅立つという悲劇もままあるのだ。
「流石に、いとけなき者が天に召されたという辛い報せは耳にしとうはなかった」
大王大妃は弱々しく微笑んだ。
「こうなってみれば、私は子が授からなんだのもかえって良かったと思える。我が子や孫が自分より先立つなぞ、自分が死ぬるより辛きことであろうからの」
オクチョンが頷くと、大王大妃が力なく笑った。
「憐れなことだ。益体もないこんな年寄りがのうのうと長らえ、産まれたばかりの生命が呆気なく失われるとは。私が代わってやれれば良かったのだが」
「大王大妃さま、私は長らく殿下のお子を授かりたいと願ってきましたが、もしかしたら、このまま授からない方が良いのかもしれないと思うようになりました」
もし産んだ我が子が儚くなったら―と想像しただけで、気が狂いそうになる。今回、王妃が王女の後を追うように亡くなったのも、我が子を喪った哀しみが余計にその早すぎる死を招いたような気がしてならない。
「何の、そなたはまだ若い。これからではないか。そのような気弱なことを申して何とする」
たしなめるように言い、大王大妃は遠い眼になった。
「亡き中殿に初めて逢ったのは、まだ中殿が少女であった頃、主上との結婚の挨拶に来たときだ」
大王大妃はゆるりと首を振った。
「あの時、私は見たくもないものを見た」
オクチョンはハッとした。
「もしや大王大妃さまは今回のことも観相でお判りになっていたと?」
大王大妃がフと笑う。
「仮にもこの国の母となるべき娘だ。意図的に観相したわけではない。ただ、時として私は見たくもないものを見ることがある」
「特に観相をしようと思わなくても、その人の未来が見えてしまうということですね」
「ああ」
大王大妃が頷いた。
「その者の運命が不動であればあるほど、未来は、はっきりと見える」
「不動である―」
呟いたオクチョンに、大王大妃は頷いて見せた。
「さよう。いつか申したな。人の運命は予め定められていて、変えられぬと」
「はい。確かに仰せになりました」
「ただ、ちょっとした出来事が時として予期せず定められた運命を思わぬ方向へと導いてくれることもある」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻 作家名:東 めぐみ