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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「赤児が泣くのは腹の空いたときだけか?」
「いえ、襁褓が汚れたときも泣くものにございます」
 尚宮の遠慮がちな応えに、王妃は頷いた。後は声もなく静々と一行は進む。
 王妃の心はますます重く沈んだ。
 もしかしたら、大妃は禧嬪を口で言うほど心根の悪い人間だと思っているのではないかもしれない。大妃は名門の令嬢であり、先王の中殿として大勢の御子に恵まれた。先王の王妃にして王の母であり、その立場の高貴さと生来の気位の高さゆえに、ただ禧嬪が賤民出身だという一点が許せないだけなのだろう。
 今日、初めて王妃は義母の禧嬪に対する本心を知ったような気がする。
 王妃自身は禧嬪をその出自のせいで、貶めるつもりはない。生まれた王子のためにも、出産前に禧嬪に告げたように良好な関係を築いてゆきたいと願っている。
 けれど、禧嬪の方は、どうなのか。
 大妃は言った。
―やはり同じ親でなければ判らぬのだ。これから禧嬪はこの子を守るためなら、生命を賭け鬼にでもなるだろう。そのことを忘れぬようにな。
 王妃の気がかりは、大妃の禧嬪に対する見解ではない。大妃のあのひと言であった。
 指摘されるまでもなく、我が身は母となったこともなく将来的にも子を授かる見込みは限りなく薄いであろう。
 そんな我が身に、禧嬪の思惑など知れるはずもない。王妃が見たところ、禧嬪は王の寵愛を受ける己れの立場に奢ることなく、謙虚で清廉な人物のようだ。
 けれど、そんな禧嬪であっても、これからは違うのだろうか。ひとたび子を持てば、あの王子のために、菩薩のような禧嬪が鬼に変わってしまう日が来るのだろうか。
 判らない、すべてが判らなくなってしまった。
 王妃は深い溜息を吐き、重い足取りで帰り道を辿った。

 その半月後、かねてから建設中であったオクチョンの新しい住まいが完成した。
 吉日を占い、その日をもってオクチョンは住まいをこれまでの殿舎から新しい御殿に移した。
 御殿、それはまさに御殿と呼ぶにふさわしい煌びやかな殿舎であった。
 中華風の作りを随所に取り入れた斬新な意匠が目立ち、王の寵愛を一身に集める寵姫にふさわしい華やかな建物だ。
 オクチョンは王子を腕に抱き、殿舎の前に佇んだ。感無量の想いで、眼の前に佇む広壮かつ壮麗な建物を見上げる。
 殿舎の前庭には、何の花も植わっておらず、御殿が美麗であるだけに、かえってその落差が際立つ。しかし、オクチョンは知っている。
 この庭にはオクチョンの紅吊舟だけを植えるように事前に命じておいたのだ。ゆえに、まだ暦は二月に入ったばかりのこの時季、庭に花一つ見えられないのは当然といえる。
 紅吊舟を育てるには温かな季節の方が良いので、春から初夏にかけて種を播き、苗まで育てたところで、鉢植えか地植えにする。
 やがて樹木草花の芽吹く春になり、初夏が来れば、この庭は小さな花で埋め尽くされるに相違ない。遠くから見れば紅色が燃えるように見えるだろう。今からその美しい庭の風景が眼の前に浮かぶようで、オクチョンはうっすらと微笑んだ。
 花もないガランとした広い庭をけたたましい声を上げて駆け回っているのは一羽の鶏で、何とも美しい御殿とは不似合いではあったが―。オクチョンの背後に控える申尚宮やミニョンを初め付き従う多くの女官たちも同じことを考えているらしく、笑いを堪えている。
 そう、あの鶏は沈清(シムチョン)であった。今から十二年前、オクチョンとスンが都の下町で二度目に出逢った時、オクチョンが憐れんで鶏屋から買い取った鶏である。随分の長生きなのは、やはり宮殿でご馳走を貰って大切に世話されてきたからだろう。
 このシムチョンは翌年、大往生するまでオクチョンの御殿で大切に飼われ、こうして前庭を騒がしく暴れ回っては女官たちを大いに笑わせることになる。
 その日のオクチョンは殊に美しかった。凜とした佇む姿は、まさに彼女の愛する紅吊舟のように可憐でありながら優美であり、きらびやかなチマチョゴリは上衣が萌葱色で蘭の刺繍が細やかに施され、花びらのようにふんわりとひろがるチマは華やかな牡丹色、裾に繊細な模様が金糸銀糸で縫い取られている。
 胸にはスンから贈られた紅玉のノリゲが揺れている。今の季節、庭にはないが、オクチョンの胸元には一年中、色褪せることのない紅吊舟の花が誇らしげに咲いている。
 結い上げた漆黒の髪には幾本もの贅を尽くした簪が挿され、冬の透明な陽射しに惜しげもなく使われた玉が光っている。 
 オクチョンが静かに新しい住まいを眺めている前で、シムチョンは相変わらず騒がしく走り回っていた。
「シムチョンは相変わらず元気ねぇ」
 オクチョンが笑いながら視線を動かした。何気なく視線を上向けた刹那、階を登り切った正面高くに掲げられている扁額に眼がいった。
 そういえば、と今更ながらに思い出す。
 スンが少し前に笑いながら言っていた。
―新しい住まいの名は、俺が考えた。
―どのような名前なの?
 オクチョンの問いに、スンは悪戯めいた表情を返しただけだった。
―内緒だ。そなた自身の眼で見るまで、愉しみにしていろ。
 スンは能筆家でもあるから、スン自身が名前も書くのだとか話していた。国王手ずから住まいの名を扁額に記し、それを新住居に飾る。それがどれほど栄誉なことか、粛宗のオクチョンへの寵愛が深いかを物語ることか。
 オクチョンも理解はしている。ありがたいことだとも思っていた。
 王子が生まれてからというもの、これまで王妃とオクチョンへ等分に注がれていた寵愛は、はっきりとオクチョンの方が大きくなったと周囲は認識していた。これまで内心はともかく、粛宗は後宮に住まう二人の妻に対して、分け隔てなく接してきたのだ。
 しかし、王子誕生をきっかけに、その均衡が崩れつつあった。王はもうオクチョンを人目もはばからず寵愛している。子のいない王妃は明らかに王にうち捨てられた感があった。
 言ってみれば、スンはオクチョンというよりは、オクチョンの許で育つユンの顔を見にくるのである。それをかぎつけた大妃は王妃に
―王子を禧嬪ではなく中殿の元で育てよ。
 などと、王妃をたきつけているという。
 が、慈悲深い王妃が生まれて日も浅い赤児をオクチョンから取り上げるはずもなかった。
 オクチョン自身はスンが来た時、たまには中宮殿にも行って欲しいと頼むのだが、スンは適当に返事をするだけで、中宮殿に行く気配はない。
 オクチョン自身は何の含むところもないのに、人々は
―禧嬪張氏がまた夜ごと、お閨で殿下に中殿さまのところには行かないで下さいと泣きついているそうな。
 と、もっともらしい顔で囁き合っているという。そうして、王に忘れられた王妃に同情が集まり、オクチョンはいつしか?妖婦?呼ばわりされる。その図式は、まだスンの寵愛を受け始めたばかりの十数年前と何ら変わりない。
 自分はとかく?誤解されやすい?運命にあるのだろう。オクチョンはこの頃、もう諦め気味であった。十数年前は妖婦と呼ばれるのが辛く哀しく、悔しかったのに、慣れとは恐ろしいものだ。