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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 オクチョンは思考を現実に戻した。今はつまらないことを考えても仕方ない。考えても意味のないことを考えるのは時間の無駄というものだ。現実的なオクチョンらしい思考である。
 折角スン自ら考え書いてくれた御殿の名前だ、どんな名前なのだろうか。
 期待を込めて見たオクチョンは、瞠目した。
―就善堂(チソンダン)。
 扁額には勇壮かつ優美な手蹟で堂々と記されている。
―王の母にはふさわしい名前だ。
 あの時、スンはそうも言った。オクチョンは慌ててスンに言ったものだ。
―スン、誰が聞いているか判らないわ。滅多なことを言わないで。スンには王妃さまがいらっしゃるのよ? 私の産んだユンが王になることはないし、王位を継ぐのは将来、王妃さまがお産みになる御子さまなのだから。
―オクチョンは相変わらず無欲だな。
 と、スンは静かに笑っているだけだった。
 我が子が王になるなんて、想像もできないし、あまりにも畏れ多いことだ。オクチョンの怖れていたことが起こってしまった。
 我が子が権力争いに巻き込まれる―。それだけは避けたいから、あれほど女の子が生まれるのを願っていたというのに。
 スンは何気なく口にしたことだとしても、周囲はそうは理解してくれない。挙げ句、
―妖婦禧嬪張氏が我が子を王位につけたがっている。
 と、また痛くもない腹を探られる羽目になる。自分が悪く言われるのはまだ我慢できるが、ユンが醜い政争に巻き込まれたり、最悪、王妃に心を寄せる者たちに生命を狙われることになったらと考えただけで、オクチョンは叫び出したいほどの不安に駆られた。
 我が子の無事を願う母として、スンにはこれ以上、余計なことを言って欲しくなかった、スンはこの国の王だから、スンのひと言がユンの運命を決めてしまう。
 あのときの驚愕と恐怖を思い出し、オクチョンは眼をまたたかせた。
―就善堂。
 どこかで聞いたことがある。
 更に心の中で呟いた。
―就善堂、就善堂。
 瞬間、ザワッと身体中の肌が総毛だった。そう、あれはいつのことだったか。
 もう今から数えれば十三年前になる。大王大妃殿の女官だった頃、眼の敵にされていた女官仲間に池に突き落とされた。
 泳げないオクチョンは溺死しそうになり、生死の淵を彷徨ったのだ。その間、熱に浮かされながら、恐ろしい夢を次々に見た。
 あの、夢。
 夢の中で、オクチョンは確かこの建物と似たような豪奢な建物の前に立っていた。そのときはミニョンも一緒だった。
 ミニョンが雪洞を持っていて、周囲は月もない闇夜に閉ざされていて、建物だけが闇の底に沈んでいるのがとても不気味だった。
 オクチョンはミニョンが止めるのもきかず、何かに導かれるように建物の階を昇り、正面の扉を開けようとしたら、いきなり血が降ってきて―。
 夢の中で、オクチョンはあの建物には既視感があると思った。けれど、実際にあんな建物は宮殿内でも見かけたことはなかったのだ。
 今、眼の前に偉容を誇る壮麗な殿舎こそがあの夢の中の建物であった。
―こんなことって。
 オクチョンは軽い目眩を憶え、額を押さえた。
 あの夢が吉夢であったとは思えず、夢に出てきた建物でこれから自分と小さな息子が暮らしてゆくのは吉なのか凶なのか。
―そなたのゆく手には栄光と衰退が見える。
 ふいに大王大妃が残したひと言がまざまざと耳奥で甦った。
―大空を悠々と飛ぼうとするそなたのゆく手を遮る者がいる。その者は西から現れる。忘れるな、オクチョン。
 オクチョンは小さく首を振り、西の方角を見やった。
 視線の先には先刻と変わらず、かしましく騒ぎ立てる鶏がいるだけだ。
「どうかされましたか、禧嬪さま」
 傍らのミニョンが気遣わしげに言うのに、オクチョンは安心させるように微笑んだ。
 あの時、夢の中でミニョンはオクチョンを止めた。でも、オクチョンは就善堂の中へ入ろうとしたのだ。そして血が雨のように降ってきて―。
 あの夢は一体、何を意味しているのだろうか。
 一陣の寒風が身の側を吹き抜け、オクチョンは身体の芯から凍り付くような真冬の風にかすかに身を震わせた。
「ここは寒うございます。王子さまがお風邪を召してもなりませぬゆえ」
 申尚宮がそっと囁き、オクチョンは頷いた。
 私はこの子の母親なのだ。母は何があろうと、鬼にも蛇にもなって子を守り抜かねば。
 オクチョンは腕の中の息子を抱き直し、歩き始める。
 この日、オクチョンは粛宗の寵愛を一身に集める?禧嬪張氏?として、新しい殿舎に最初の一歩を踏み入れたのだった。

                 

            

※この作品は史実を元にしたフィクションです。