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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 一体、何者なのであろうか。大王大妃が死ぬ前の妄想で告げた言葉だとは思えない。あの言葉をくれた時、大王大妃の双眸には、しっかりとした光があった。
 だが、運命に屈するわけにはゆかない。以前の自分であれば、それも仕方ない、運命だと受け入れたかもしれない。けれど、我が身はもう一人ではない、守るべき愛おしい存在を得たのだ。
 運命なんかに負けはしない。たとえ西から現れる者が自分のゆく手をどれだけ阻もうと打ち勝ち、運命を変えてみせる。
―私は、この子を全力で我が生命に代えても守り抜こう。
 オクチョンは赤児のすべすべとした頬を撫でながら、堅く誓ったのだった。
 その頃、張昭儀無事出産と男児誕生の知らせがひそかに大妃殿にも届いた。
「そうか、王子が生まれたか」
 流石にこの時、大妃も眼を閉じ、何かしらかの感慨に浸っているように見えた。
「引き続き、王子の健康状態には万全を尽くすように。やっと授かった王室の大切な宝だ。心して育てよ」
 王子を産んだ今回の最大の功労者は張昭儀である。しかし、張昭儀に対しては大妃から何の言葉もなかった。
 
 年が改まった翌一月十五日、ついに王命が下った。王子を産み奉ったチャン・オクチョンに対して正一品、嬪に任命する王命が下されたのである。
 王命伝達式の当日は、仁顕王妃もそれに立ち合った。正装した王妃、オクチョン共にいずれが盛りの花かと思うばかりのまばゆい美しさである。まさに、王の女と呼ばれる後宮の美姫といえた。
「これで、そなたも正一品の嬪だ。王子の生母として、どこに出ても胸を張っていられる。禧嬪(ヒビン)とは、めでたい良き名ではないか。名のごとく、そなたのますますの栄えと長久を祈っておるぞ、禧嬪」
 オクチョンの職名は?禧嬪?に決まった。スン自ら考えてくれたこの新しい職名がオクチョンも気に入っている。これより後、オクチョンは?禧嬪張氏?と職名で呼ばれることになる。
 王妃の美しい面には、我が事のように歓びが溢れている。
「お心遣い、感謝申し上げます、中殿さま」
 オクチョンが心から礼を述べれば、王妃は笑った。
「何の、そなたはそれだけの功績をあげたのだ。大きな顔をしておれば良い」
 だが、オクチョンは知っている。大妃は今回も当然ながら、オクチョンの昇進を断固として反対した。しかし、粛宗だけでなく王妃も熱心に口添えしてくれたお陰で、大妃もついには折れたのである。
―お義母さま、張昭儀は王子の生母にございます。国王殿下にとってただ一人の王子の生母が昭儀のままでは下々に示しがつきませんし、また王子も肩身の狭いを想いをするでしょう。何とぞ、ご理解下さいませ。
 王妃の言葉を尽くしての説得に、さしもの大妃も折れたのだ。
 儀式も無事に終わったところで、オクチョンが背後を振り返った。
 そこには生後三ヶ月を迎えようとする王子が申尚宮に抱かれていた。
「王子さま、こちらにおいでなさいませ」
 オクチョンが両腕を差し伸べ、王子を抱き取った。
「お願いします、王妃さま」
 オクチョンは更に隣の王妃に我が子を渡した。
「真に良いのか?」
 王妃の問いかけに、オクチョンは頷いた。
「私がお連れてしても、大妃さまはこの子を見ても下さないでしょう。ゆえに、王妃さまにこの子を託します。どうぞよろしくお願いします」
 王妃も真摯に頷いた。
「あい判った。王子は必ず後でそなたの元に無事届けようほどに」
「お願い申し上げます」
 オクチョンは切ない想いで、王妃に連れられてゆく我が子を見送った。
 オクチョンが産んだ粛宗の第一王子はユンと名付けられた。粛宗はもう掌中の玉と愛で、毎日のようにオクチョンの許を訪れてはユンをあやすのが日課になっている。
 オクチョンはユンを連れてまた大妃殿への挨拶を始めたが、やはり大妃は一度として逢ってはくれない。
 そのため、オクチョンは思いあまって自分の代わりにユンを大妃にお披露目して欲しいと王妃に自ら頼んだのであった。 
 王妃は言った。
―王子を大妃さまにお目にかけること自体は造作もないが、王子を産んだのはそなたではないか、オクチョン。そなたは、それで良いのか?
 いかにも王妃らしい気遣いであった。だが、オクチョンは続けて頼んだ。
―この子は私の産んだ子ではありますが、畏れながら、いずれ嫡母となる中殿さまのお子でもあります。私はいずれ、この子を手放し中殿さまの御許で育てて頂きたいと考えております。ゆえに、大妃さまへのお披露目も私よりは中殿さまにお願いした方がこの子のためにも良いと考えております。
―そなたがそこまで言うのであれば、引き受けよう。
 王妃は快諾し、儀式の後、王子は王妃に連れられ大妃殿に向かう手筈になっていた。
 オクチョンはそのまま王妃と別れ、自分の殿舎に戻った。現在、新しい御殿を造営中である。オクチョンは今までの殿舎で構わないと言ったのに、粛宗が言ったのだ。
―王子も生まれたからには、今までの住まいではいかにも狭すぎる。子どもは広い場所で伸び伸びと育つのが良い。
 とか言いだし、急遽、御殿の造営が始まった。ユン誕生直後から始まった工事もほどなく終わり、新殿舎が完成の予定である。
 もちろん、そういった新御殿造営も大妃の立腹の一助となっているのは言うまでもない。
 オクチョンは思い乱れつつ、もうすぐ引き払うことになる殿舎に戻った。
 一方、王子を連れた王妃は真っすぐ大妃殿に向かった。おとないを告げると、案の定、大妃はそっぽを向いたまま言った。
「どうせまた、あの妖婦が連れてきたのであろう」
 逢う気はないとお付きの尚宮に言ってやろとした矢先、意外な返事が返ってきた。
「大妃さま、今日、王子さまをお連れになっているのは禧嬪さまではございません。中殿さまでいらせられます」
「なに、中殿が王子を連れてきているのか」
 大妃がさっと振り返った。
「あの女狐は?」
「禧嬪さまのお姿は見えませぬが」
 首を傾げる尚宮に、大妃は声を張り上げた。
「逢う、逢うぞ。すぐに王子をこれへ連れて参れ」
 ほどなく王妃が入室してきた。腕には練り綾のおくるみに包まれた赤児が眠っている。
 背後には、数人の尚宮と女官が付き従っていた。
「よう参られた、中殿」
 上座から身を乗りださんばかりに、大妃は赤児が気になるらしい。
―強情を張られずに、禧嬪にお会いになれば良いものを。
 王妃は内心はおくびにも出さず、赤児を抱いたまま上座の大妃に頭を下げた。
「先触れも出しませずの急な訪問、失礼しました」
「水くさいことを言われるな。そなたは息子の嫁、私には娘も同然だ。いちいち訪ねるのに先触れなど必要ない」
 言いながらも、視線は王妃の腕の中の赤児に向けられている。
「して、用件を聞こう」
 分かり切っているのに、大妃の性格では、こうしか言えないのだ。
「今日は王子を連れて参りました」
 漸く王妃が本題に入り、大妃はホッとしたような表情になった。
「どれ」
 手を伸ばす大妃に眠っている赤児が抱き取られた。
「よく眠っておるな」
 その時、まさに絶妙の間合いで赤児が眼を覚ました。開いたつぶらな黒い瞳に、大妃が感嘆の声を上げた。