炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻
王妃は宥めるように王の手を優しく撫でた。それを尻目に、もうそろそろ老齢といって良い大殿尚宮は、飛ぶような足取りで部屋を出ていった。
粛宗は祈るような気持ちで、閉まったばかりの扉を見つめた。
―オクチョン、そなたを失って俺にこれから、どうやって生きてゆけというんだ?
王は心の中で想い人に呼びかけた。彼女のいない人生など、考えられない。
―いつか俺はそなたに言った。そなたこそが俺の宝だと。
今もその心にいささかの変わりもない。貞淑で優しい王妃には申し訳ないが、粛宗にとって生涯の想い人と思えるのはチャン・オクチョンしかいなかった。
産室からは何の物音も聞こえない。今し方の聞くのさえ耐えられない悲痛な呻き声もぴたりと止んでいる。遣いにやった大殿尚宮もまだ戻ってこない。
それらのすべてが粛宗にとっては悪い前触れのような気がしてならない。居ても立ってもいられず、粛宗は廊下に走り出た。廊下にはあまたの女官が控え、内官も混じっている。そのまま産室に向かって走ろうとする王を、皆が呆気に取られて眺めた。
大殿内官がホ内官に目配せした。ホ内官は更に待機していた仲間たちに合図を送り、彼等は数人がかりで粛宗を止めた。
心配した王妃も後から廊下に出てくる。
「放せ、オクチョンのところに行く」
王が暴れるので、内官たちも必死の形相である。
同じその時刻。オクチョンは産所で天井からぶら下がった綱に掴まり、懸命に陣痛に耐えていた。
散策の途中で破水してから、既に数時間は経過している。やはり実家の母のように産気づいて四半刻で出産というわけにはゆかなかった。
高齢で初産というのも関係しているのだろう。ぼんやりとそんなことを考えていられる中はまだ良かった。陣痛は次第に強いものになってゆき、しまいには考え事どころではなくなった。
「うっ、ううー」
また一段と強い陣痛に襲われ、オクチョンはあまりの激痛に顔を歪めた。身体中汗びっしょりで、顔にも汗の滴が光っている。
そのすぐ側にでは、いよいよ出産と知らされ駆けつけた母が付き添っていた。
「可哀想に」
苦しみ続ける娘の髪も汗に濡れて湿っている。オクチョンの母は、目許が娘に生き写しの美しい女性だった。今、産みの苦痛に喘ぎ続けるオクチョンを傍らで励まし続ける母の瞳はしとどに濡れていた。
オクチョンの母は湿った娘の髪をそっと撫で、涙を拭った。
これ以上、苦しむ娘を見ていられず、静かに室外に出た時、廊下の向こうから粛宗がやってくるのが見えた。
内官たちを振り切り、産室には入らないという条件で漸く駆けつけたのである。
オクチョンの母と粛宗はむろん面識はあった。たまたまオクチョンの許に母が来ていた時、粛宗のお渡りがあったこともある。
しかし、基本的に母ユン氏は万事に控えめな人だ。国王の寵愛が厚い側室の母だからと、我が者顔に後宮に出入りするようなこともなく、むしろ、奴婢出身の身を恥じて極力娘の許に姿を見せるのも控えている。
謙虚な人柄は娘のオクチョンにそのまま受け継がれているようだと、常々粛宗はこの義母に対して好感を抱いていた。
「義母上、オクチョンの様子はどうですか?」
彼はいつも義母に対しては、王ではなく義理の息子として接し、礼を尽くすのを忘れなかった。そのことで、かえってオクチョンの母は恐縮しているようではあったが、オクチョンは彼の妻なのだから、自分が妻の母に息子として礼を尽くすのは当然のことだ。
大妃はそのことも気に入らぬ要因の一つらしい。
―この国で至高の地位におわす御方が何ゆえ、奴婢に頭を下げる必要があるのだ!
息子粛宗の態度が我慢ならないようである。
いつもながらの丁寧な問いかけに、ユン氏は畏れ入った様子で応えた。
「産婆は今少しだけと申していますが」
「かなり苦しんでいるようですね」
粛宗の心配でならないといった態度に、ユン氏は微笑んだ。
「初めてのお産というのは誰しも皆、似たようなものです。ご安心下さい、国王殿下」
「そうですね。朕もいささか恥ずかしいくらい取り乱してしまった。お陰で、内官たちに数人がかりで取り押さえられました。ここで大人しく待ちますよ」
「殿下にそのようにお気に掛けて頂き、娘は幸せ者ですわ」
ユン氏の控えめな微笑に、粛宗も漸く笑みを見せた。
その間も、オクチョンは産室で陣痛に耐えていた。
「昭儀さま、もうすぐですよ、既に赤児の頭が見えておりますゆえ、今一度息んで下さい」
御医の他に、ベテランの産婆も呼ばれている。産婆の声かけに、オクチョンは頷き、最後の力を振り絞った。
次の瞬間、静けさの底からわき出すような赤児の力強い泣き声が聞こえた。
「義母上、生まれたようです」
粛宗の言葉に、ユン氏も頷いた。
「おめでとうございます」
義理の母親はこの国の王に向かって、深々と頭を下げ、すぐに産室に戻った。
やっと閉ざされていた産室の扉が開いた。ミニョンが顔を覗かせ、高らかに叫んだ。
「王子さまご生誕、元子さまご誕生にございます」
いつしか王妃も傍らに立っていた。粛宗は王妃と顔を見合わせた。
「聞いたか、中殿。王子だそうだ。この国の世継ぎとなるべき男の子だぞ」
王だけでなく王妃の眼にも涙が浮かんでいた。
「おめでとうございます」
王妃の言葉をきっかけとするかのように、その場に居合わせた女官たちが一斉に平伏した。
「おめでとうございます、殿下」
粛宗は走るようにして、オクチョンの産室に入った。
「でかした、オクチョン」
「殿下」
愛する男を産褥から見上げ、オクチョンは疲れ切った面に弱々しい微笑を浮かべた。
「よく頑張ったな。そなたに似て可愛い子だ、ありがとうな」
粛宗はオクチョンの頬を指の腹でそっと撫でた。前王妃の産んだ王女以来、七年ぶりの我が子の誕生である。
今、王は二十七歳にして漸く待望の我が子を得た。粛宗の頬にはいく筋もの涙の痕があった。
王室の御子、しかも王子誕生の慶事にその場は静かな歓びと興奮に満たされていた。
男子誕生と聞いた瞬間、オクチョンの脳裏に浮かんだのは大王大妃の遺言だった。亡くなる少し前、オクチョンは大王大妃殿に参上し、お見舞いをしたのだ。
あの時、大王大妃は遺言として、謎の予言めいた言葉を残した。あの?栄光?という言葉から、生まれてくる子は王子ではないか。オクチョンは薄々感じてはいたのである。
赤児の性別を聞かされた瞬間、身体中の力が一挙に抜けた。
我が身があれほど願った娘ではなかった。しかし、母性愛とは純粋なものだった。得たばかりの我が子をミニョンが抱いてきてひとめ見た刹那、性別など取るに足らないことだと思った。
それにしても気になるのは、やはり大王大妃の遺言である。?栄光?と?衰退?がオクチョンのゆく手に見えると、あの方は言われた。
衰退とは不吉な言葉だ。そして、空を飛ぼうとするオクチョンのゆく手を阻むものは西から現れるらしい。とすれば、?衰退?をもたらす者が即ち西から現れると考えるのが妥当であろう。
オクチョンにとっては、まさに不幸を連れてくる禍々しい使者ともいえる。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻 作家名:東 めぐみ