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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 前(さき)の仁敬王后はひと月も早い出産であったのに対し、オクチョンは予定日を過ぎても一向に出産の兆しはなかった。御医たちは皆、顔を見合わせたものの、胎児に特に問題はなく、張昭儀の妊娠経過も初期に流産しかかったのを除けば、至って順調だ。
 このまま自然にお産が始まるのを待てば良いという結論に達した。とはいうものの、流石に予定日を七日過ぎた辺りからは不安と焦燥がいや増すのは致し方なかった。
 粛宗は毎日のように張昭儀の御殿を訪ね、
―まだ生まれぬのか? 陣痛はまだか?
 と、訊ねる有様だ。
 周囲の焦りをよそに、産婦のオクチョン本人は至ってのんびりとしていた。一生涯身籠もったままということはあり得ないのだから、いつか赤児がその気になれば生まれるだろうと笑う姿に、お付きの申尚宮とミニョンの方が呆れる始末だ。
 御医の勧めで運動すれば陣痛がつくと言われ、しばらく取りやめていた朝の散歩を再開した。予定日を過ぎて数えて十四日めを迎えたその朝も、いつものように申尚宮とミニョンを伴に、オクチョンは散歩に出かけた。
 すっかり大きくなったお腹のせいで、足下がよく見えない。危険なので、自然、歩くのもゆっくりになる。
 オクチョンの泰然とした態度とは裏腹に、御医たちの懊悩は深まるばかりだった。実のところ、今日一日、様子を見て産気づかなければ、薬を処方して陣痛を人工的に誘発しようという方針になった。予定日をあまりに長く過ぎての出産は母胎というよりは、胎児の方に悪影響が出る危険がある。胎児が弱っていくのだ。
 張昭儀の出産は何としても無事に終えるようにとの王命が出ている。万が一、国王の寵姫や御子の身に変事があれば、御医たちは首と胴体が真っ二つになるかもしれない。
 張昭儀には何としてでも無事、身二つになって貰わねばならないのだ。
 また御医団の筆頭医官は、予定日の数日前に大妃殿にひそかに呼ばれていた。
―予定日が近いというのに、張昭儀はまだ産気づかぬのか?
 大妃に直接質問され、医官は汗をかきつつ応えた。
―さようにございます、大妃さま。
―予定日を過ぎれば、出産にも支障が出ると聞く。お腹の子に悪影響はないのか?
―仰せのとおりにて、確かに予定日を大幅に遅れてのお産では、胎児が弱っている場合が往々にしてございます。
―あの女狐など、どうなっても良い。さりながら、万が一のときは赤児だけは助けるのだ。たとえ母親が身分賤しき妖婦であろうと、主上の血を引く大切な和子だ。御子だけは何としても無事に生まれさせるように。
 大妃からもひそかに密命を受けた医官は冷や汗もので御前を下がった。
 表向きは張昭儀の産む御子を孫とは認めぬと公言してはばからない大妃である。が、内実はやはり、七年ぶりに生まれる孫の無事は気になるらしかった。
 その日の散策は途中から粛宗も加わり、賑やかになった。季節は十月も終わりに近づいている。
 蓮池へと続く小道をスンと並んで歩いていた時、オクチョンが歓声を上げた。彼女の好きな紅吊舟が咲いているのを見つけたのだ。
 この花の季節もそろそろ終わりだが、このところの陽気で花も頑張って咲いたらしい。
 子どものように無邪気にはしゃぎ、オクチョンは走り出した。とはいっても、お腹が大きくせり出しているため、思うように走れず小走り程度である。
「オクチョン、走っては駄目だ。転ぶぞ」
 スンが背後から笑いながら見ている。それでも、オクチョンは興奮しきっていて、走るのを止めない。
 紅い花が群れ咲いている手前で、ふいにオクチョンはお腹を押さえて立ち止まった。
 腰から下半身にかけて鈍い痛みが走ったのだ。痛みは見る間に激痛に代わり、オクチョンはその場にくずおれた。
「オクチョン!」
 スンが狼狽え、慌てて駆けてきた。
「どうした、オクチョン」
「お腹、お腹が痛いの」
 オクチョンはお腹に手を当て呻いた。刹那、生暖かいものが太腿をつたうのも判った。
「昭儀さまっ」
 異変に気づいたミニョンが悲鳴を上げた。オクチョンの両脚を透明な液体が濡らしている。
 スンが絶望的な声を上げた。
「どうしたのだ! 一体、何が起こったといんだ?」
「破水したんだと思う」
 当のオクチョンが消え入るような声で呟いた。
「破水?」
 スンが申尚宮を見ると、申尚宮が深刻な面持ちで言った。
「お産が始まったようにございます、殿下」
 通常、国王の散歩には多くの伴がつくが、このときは申尚宮とミニョンしかいなかった。
「朕が背負うゆえ、イ女官は即刻、宮殿に戻り昭儀が産気づいたと御医たちに伝えてくれ」
「畏まりました」
 ミニョンが捕らえられそうになった兎のような勢いで走り去ってゆく。
 粛宗はぐったりとしたオクチョンを背負った。
「オクチョン、もう少しの辛抱だ」
 オクチョンは粛宗に背負われたまま、殿舎に戻った。彼女の身柄は産室に移された。
 粛宗は大殿には戻らず、別室で朗報を待ち続けた。
 彼の脳裏に浮かび上がるのは、やはり七年前の前王妃の出産であった。六日も苦しんだ挙げ句、生まれた赤児は産声を上げてすぐに亡くなり、妻もほどなく死んだ。
―また、あの悪夢が繰り返されるのではあるまいな。
 産室からは、オクチョンの呻き声がひっきりなしに聞こえる。これも七年前と同じだ。
 粛宗は両手で顔を覆い、絶望の吐息を洩らした。
 そのときだった。ふいに肩に置かれた温もりに気づき、粛宗は顔を上げた。
「中殿」
 見上げた先には王妃がやらわかな笑みを刷いて佇んでいる。
 王妃はいつものようにたおやかな仕草で王の傍らに座った。温かな笑みはそのままに、励ますように言った。
「きっと昭儀のお産は無事に終わり、健やかなる御子が誕生します」
 確信に満ちた口調に救われた想いで、粛宗は頷いた。
「そうだな」
 呟いたまさにその瞬間、産室の方から聞くに堪えない絶叫が緊張を孕んだ静寂をつんざいた。
 粛宗が耐えられないといったように立ち上がった。
「オクチョンは俺の子を産むために生命賭けで闘っているというのに、俺は何もしてやれない」
 彼は傍らに控える大殿尚宮を呼んだ。大殿内官の?爺や?のように王が?婆や?と呼ぶこの尚宮こそが粛宗の幼少時代、保母尚宮を務めた女性である。内侍府長を務める大殿内官と共に王にとってなくてはならない存在だ。
 ある意味、実の母大妃より粛宗が信頼を寄せている人たちだった。
「婆や」
「何でしょう」
 近寄ってきた大殿尚宮に、粛宗は耳打ちした。
「もしものときは昭儀を助けるように御医団に伝えよ。母親と赤児、どちらかしか助からないときはオクチョンの安全を優先するのだ」
 ハッと大殿尚宮が息を呑む。王は真摯な表情を信頼するかつての乳母に向けた。
「子はまた授かる。さりながら、昭儀を失うことはできぬ」
 何か言いたげな大殿尚宮に、粛宗は救いを求めるように王妃を振り返った。
「私も殿下と同じ気持ちだ」
 王妃の言葉に、大殿尚宮は頷いた。
「畏まりました。至急、侍医団に伝えまする」
 思わず拳を握りしめた粛宗のその手に、王妃のほっそりとした手が優しく重ねられた。