炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻
「お言葉ですが、大王大妃さま。大王大妃さまはいつか運命は変えることのできないものだと仰せではありませんでしたか」
いや、と、大王大妃は首を振った。
「決まった運命をことごとく変えるのは難しくとも、来るべき不幸を最小限に食い止めることはできる」
大王大妃はここで荒い息を吐いた。
「お苦しいのではありませんか? あまりお話にならない方が良いのでは。占いの結果であれば、また明日にでもお伺いしてお聞かせ頂きます」
長話で疲れさせてはならないと気を遣ったのだが、大王大妃は真剣な顔で言った。
「明日では遅い。私には時間がない、オクチョン、頼むから話を聞くのだ」
「はい」
大王大妃の声に懇願の響きを感じ取り、オクチョンは頷いた。
「そなたがやがて翼をひろげて悠々と空を飛ぼうとする時、邪魔立てする者が現れる。その者は西から現れる。良いな、オクチョン。そなたを守ることができるのは主上しかいない。そなたと主上は前世よりの深い縁で結ばれておるゆえ、二人の縁が切れぬ限り、そなたは安泰だ。けして主上の手を放すでないぞ。西から現れる者に気をつけよ。私の言葉を忘れるでない、オクチョン」
話し終わり、大王大妃は疲れ切ったように眼を閉じた。ほどなく軽い寝息が聞こえ始め、オクチョンは静かに室を出た。
大王大妃の言葉は謎が多すぎた。しかし、予言めいたその言葉が間違いなくこれからの自分の進む道を指しているのはオクチョンにも判った。
思えば、大王大妃は最初から不思議な力を感じさせる女性であった。
「お疲れになったのであろう、よく眠っておいでだ」
オクチョンは控えの間に待機するコン尚宮に小声で告げ、気になるから明日もまたお見舞いに伺いたいと伝えて大王大妃殿を辞した。
その夜更け、眠っていたオクチョンは申尚宮の呼び声で眠りから目覚めた。
「昭儀さま、大事にございます」
申尚宮の小さな顔は蒼白だった。オクチョンは何か良からぬことが起きたのだと咄嗟に察した。
もしやという嫌な予感が去来し、灯火もない薄い闇の中で申尚宮を見つめる。
「何かあったのか?」
「大王大妃さま、ご崩御にございます」
「―」
オクチョンは眼を閉じた。今日の夕刻、別れたばかりなのに、もう彼(か)の方は帰らぬ人となり、遠いところに旅立っていったのか。
熱い滴が溢れ出し、堰を切ったように頬をつたい落ちた。
「すぐに大王大妃殿に参上する。喪服の準備を」
オクチョンの凜とした声音に、申尚宮は立ち上がった。
申尚宮とミニョンの介添えで喪服に着替えたオクチョンは取るものも取りあえず、大王大妃殿に向かった。大王大妃の亡骸は布で覆われ、生前と同じように寝かされていた。
傍らに粛宗の姿がある。同様に喪服姿の粛宗は放心したように前方を見つめていた。
「殿下」
人前なので、いつものようにはゆかない。オクチョンは粛宗に軽く頭を下げた。
「オクチョン」
粛宗―スンはオクチョンを認め、瞳を潤ませた。
「お祖母さまが亡くなられたなんて、嘘のようだ。今朝、お見舞いに伺ったときは、お元気そうだったのに」
「私も夕方にお伺いしたの。弱ってはいらしたけど、まさか亡くなられるとは思いもしなかった」
オクチョンは掛けられた白布を捲った。夕方、最後に見たときのままに穏やかな表情である。まるで眠っているだけで、呼びかければ?オクチョン、来たか?と眼を開きそうであった。
この時初めて、オクチョンは大切な人が本当に逝ってしまったのだと悟った。
「大妃さま、中殿さまのおなり〜」
扉外から女官の声が響き渡った。
大妃と王妃は連れだって弔問に来たらしい。オクチョンはスンを見た。
「私はここにいない方が良いから、帰るわね」
「夜中に動いたりして大丈夫か? 腹の子に障りないのか?」
お腹の子のこととなると、いささか過剰なほどの心配性になるスンである。オクチョンは笑った。
「大丈夫よ。私に似て元気なのだけが取り柄だと思うわ」
「そなただけの子ではない、俺の子だ」
スンが少しだけ元気を取り戻したように言い、オクチョンは立ち上がる。
「それでは失礼致します、殿下」
皆に聞こえるように言い、一礼してその場を辞した。室の入り口で王妃を伴った大妃とすれ違う。もちろん、二人とも喪服姿である。
オクチョンは素早く脇により、深く頭を垂れたが、大妃はつんと顎を逸らし、そのまま素通りした。背後に続く王妃はオクチョンに対して軽く頭を下げた。
昭儀になった今も、大妃は相変わらずオクチョンに敵意をあからさまにしている。いや、懐妊し位階が上がったことで、余計に敵愾心を燃やしているともいえる。
―あのような身の程知らずの女狐が産んだ子など、主上の子とは認めぬ。賤しい女ゆえ、本当に主上の御子かどうか判らぬぞ。
などと、オクチョンが身籠もった御子の父親が粛宗ではないとまで言い放ったらしい。それを聞きつけた粛宗が激怒し、大妃殿まで乗り込んでいって手のつけられぬ母子喧嘩になったとまで報じられたほどだ。
何故、大好きな男の母にそこまで憎まれ蔑まれるのか。スンのお母さんだから、嫁として尽くしたい。その想いは今も変わらないのに、大妃のオクチョンへの憎しみは衰えるどころか、ますます燃え盛っているようである。
だからこそ、最後までオクチョンを案じ続けてくれた大王大妃の優しさは身に染みた。
まるで本当の祖母を失ったようで、心の中心にぽっかりと大きな洞(うろ)が空いたような心地がする。
せめて最後のお別れは、きちんとしたかった。けれど、大妃が来たからには、オクチョンは帰らなければならない。
オクチョンは大王大妃殿の正面で立ち止まった。背後に付き従う申尚宮とミニョンも止まる。大王大妃殿の周囲では、主人の死を嘆く女官たちの泣き声がひっきりなしに聞こえた。
オクチョンは大王大妃殿を今一度仰ぎ見た。
「今まで可愛がって頂き、本当にありがとうございました」
オクチョンはその場に座り、両手を組んで目の高さに持ち上げた。拝礼を繰り返す主君を申尚宮とミニョンは黙って見守っている。
荘烈大王大妃は仁祖の継室であり、四代の王の治世を生きた人である。この時、御年、六十四歳。仁祖には早くに先立たれ実子もいない淋しい生涯ではあったが、晩年は血の繋がらない粛宗に実の祖母のように慕われ、穏やかな時間を過ごした。
穏やかな人柄で知られ、その点、気に入らないことがあればすぐに怒鳴り散らす明聖大妃とは対照的だった。身分の上下なく他人に接し、慈悲深い女性としても知られ、優しい大王大妃をひそかに慕う女官は後宮にも多かった。
大王大妃の死が残した影響は大きかった。これを機会にオクチョンは後宮で孤立へと次第に追い詰められてゆくことになる。だが、この時、彼女自身は大王大妃の死の哀しみに浸りきっていて、まだ気づいてもいなかった。
人の世というのは常に生と死が隣り合っているものだ。浜辺に打ち寄せる波は寄せては返すが、生命も似たようなものだ。
悲喜こもごもというのは世の習いである。荘烈大王大妃が亡くなった数ヶ月後、張昭儀ことチャン・オクチョンはついに出産の瞬間(とき)を迎えようとしていた。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻 作家名:東 めぐみ