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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「私は優しくなどないぞ。殿下のお心を独り占めするそなたに嫉妬することもある。さりながら、そなたが殿下の御子を身籠もったと聞き、その想いも消えた。御子が生まれたら、抱かせてくれるか」
「もちろんです。そのように中殿さまに生まれる前から愉しみにしていただいて、この子は果報者ですね」
 オクチョンの声が震え、手のひらで隠れていない頬を涙がつたった。
「そんなにお優しくして下さったら、私は中殿さまを嫌いになれません」
「そなたの立場の複雑さは、これでも少しは理解しているつもりだ。仲良くしようとは言わぬが、せめて御子を仲立ちとして、穏やかな関係を築いてゆこうではないか」
 王妃は流れ落ちるオクチョンの涙を手のひらで優しくぬぐった。
 王妃が去った後、オクチョンは改めて気づいたのだった。王妃が初めて我が身を?淑媛?ではなく?オクチョン?と名で呼んだことに。
 何の移り香か、王妃が立ち去った後、室にはえもいわれぬ芳香がかすかに漂っていた。オクチョンには、それが花の宴の日、王妃と共に愉しんだ白梅の香りに思えてならなかった。

 ほどなくオクチョンは健康を回復し、晴れて王命伝達の儀式が執り行われた。これにより、チャン・オクチョンは淑媛ではなく昭儀(正二品相当)に昇進した。位階が上がるに伴い、これまでの殿舎では手狭になるため、オクチョンは申尚宮やミニョンを連れて新しい殿舎に移ることになる。
 この殿舎は今まで暮らしていたものよりはかなり広く、建物の造りも凝った立派なものだった。
 殿舎で働く女官の数も必然的に増員の必要を迫られた。人手が増えたとはいえ、引っ越しの荷物を運び入れ、それぞれの場所に片付けるのにはそれなりの手間と時間がかかった。
 新しい殿舎での生活が漸く落ち着いた頃、オクチョンは大王大妃殿に足を運んだ。大王大妃はここ数ヶ月で見違えるほど弱った。
 オクチョンが訪れた時、大王大妃は丁度眠っていた。側にはコン尚宮が付き添っている。コン尚宮は、かつてオクチョンの上司であった人でもある。
 オクチョンが室に入るとコン尚宮は今は国王の寵愛第一にして王の御子を懐妊中の?張昭儀?に対して、深々と頭を下げた。
 心得たようにコン尚宮が出ていった後、オクチョンは枕辺に座し、ひたすら眠る大王大妃の顔を眺めた。
―本当にお痩せになってしまった。
 オクチョンは、やつれ果てた大妃を哀しい想いで見つめた。初めてこの方に出逢ったのは、まだ自分が十代のときだった。小柄でたおやかな外見には似合わず、その眼(まなこ)には強い光が閃き、この女性が並々ならぬ人であるとオクチョンは悟ったものだった。
 オクチョンが大王大妃と初めて出逢ったときを思い出していると、視線を感じ取ったように彼(か)の人の眼が開いた。
「―オクチョンか」
 呼ばれ、オクチョンはにじり寄った。
「お目覚めですか、大王大妃さま」
 大王大妃は頷き、天井を見つめた。
「夢を見ておったようだ」
「夢を?」
「ああ」
 大王大妃は頷き、視線をオクチョンに戻した。
「そなたと初めて出逢うたときを夢に見た」
「まあ、私も今、大王大妃さまと同じことを思い出しておりました」
 オクチョンが微笑むのに、大王大妃は笑った。
「思えば、あれから随分と刻が流れたものだな」
「さようにございますね」
 オクチョンは深い共感を込めて頷いた。
「十二年です」
「十二年か。あのときも自分は年寄りだと思うていたが、今では本当に年よりどころか、もう、そろそろ旅立つときが近づいたようだ」
「そのような淋しいことを仰せにならないで下さいませ」
 オクチョンが心から言うと、大王大妃は淡く微笑った。
「さりとて、人には定命(じようみよう)と申して限られた生命があるからのぅ。これだけは、どうしようもない。思えば四代の国王殿下の御世を生き、私は仁祖さまが崩御されてからあまりにも長い年月を生きた。そろそろ亡き方のおん許へ参っても良い頃合いではないか」
「大王大妃さま」
 オクチョンは声を詰まらせた。頼る人とてない後宮で、大王大妃は最初からオクチョンの味方になってくれた人だ。
 大切な人が逝こうとしている。涙を浮かべて見つめるオクチョンに、大王大妃はうっすらと微笑みかけた。
「泣くでない。懐妊中は美しきものだけを眺め、心穏やかに過ごすことだ。哀しめば、腹の御子にも障りが出るぞ」
「はい」
 しばらく静かな刻が流れた。
「オクチョン」
 唐突に呼ばれ、オクチョンは身を乗り出した。
「何でしょう」
「先ほど長く生き過ぎたと申したが、長生きして良いこともあった。そなたと出逢い、孫娘のように可愛がる者が主上の御子を見事懐妊した。今では、そなたも昭儀の位階を賜った身だ。これほどの歓びがあろうか」
「ありがとうございます。これもひとえに大王大妃さまのお導きがあればこそです」
 オクチョンは幾度も頷いた。
「そなたと私の仲だ。この期に及んで、言葉は飾るまい。オクチョン、もう少しこれへ」
 手招きされ、オクチョンは更に大王大妃に近づき口許に耳を寄せた。
「私が以前、申し聞かせた話を憶えておるか? そなたを初めて見た時、観相をしたと申した」
「はい。憶えております」
 オクチョンが頷けば、大王大妃も頷いた。
「そなたの上に羽ばたく鳳凰を見たと申したことも憶えておろうな」
 オクチョンは、十二年前の記憶を探った。そう言われてみれば、確かにそんな話を聞いたような気もする。
「さりながら、私が見たのは、それだけではなかったのだ」
「―」
 オクチョンは神妙な面持ちで大王大妃を見た。あの日、大王大妃は自分の上に?鳳凰?を見、更に鳳凰は王のつがいとなるべき者の象徴だと言った。オクチョンはあまりにも突拍子もない話だと、深く気に留める暇もなく忘れてしまったのである。
「あの時、私がそなたのゆく末に見たものについて、そなたに伝えておこうと思う」
 思ってもみなかった話を切り出され、オクチョンは息を呑んだ。
 この類い希な貴人が何を見たのか。訊ねるには、やはり、かなりの勇気を要した。
「それで、私の将来に大王大妃さまは何をご覧になったのでしょうか?」
 思い切って訊ねると、大王大妃は軽く眼を瞑った。
「私がそなたのゆく末に見たものは」
 固唾を呑むオクチョンは、大王大妃が再び口を開くまでの時間が随分と長く感じられた。
「光と影」
 唐突に沈黙が途切れ、オクチョンは眼をまたたかせた。
「光と影?」
「そうだ。オクチョン、私はそなたの未来に光と影を見た」
 この瞬間、虚ろな大王大妃の双眸に昔を彷彿とさせる光が点った。
「光と影、当たり前ではあるが、これらは対極にあるものだ。それが何を意味するか、そなたに判るか、オクチョン」
 オクチョンは首を傾げた。
「私には判りかねます、大王大妃さま」
「さもあらん。光と影とは、言葉そのままに栄光と衰退だ」
「栄光と衰退」
 オクチョンの美しい面がさっと蒼褪めた。栄光というのはともかく、衰退というのは不吉な言葉だ。オクチョンの動揺と不安を察したらしく、大王大妃は笑った。
「案ずるな。占いというものは、何も徒に歓んだり怯えたりするために結果を知るものではない。むしろ、避け得るだけの災難を避けるためにあるものだ」