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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「私が身ごもれぬ身体であるとは、そなたも知っておるはずだ。王妃たる私が殿下の御子を産めぬ今、張淑媛に授かった御子は大切な王室の宝ではないか。よくもその大切な御子を亡き者にしようなどと恐ろしきことを考えたな」
 王妃は普段からは考えられぬ冷徹な声で断じた。
「そなたのような者を獅子身中の虫というのだ。そなたの身勝手なふるまいで、私までが痛くもない腹を勘繰られるところであったわ。疾く眼の前からいなくなれ。これより先、またも面倒を起こされては私も困る。長年仕えた功に免じて、生命だけは取らぬゆえ、これよりは己れの罪を悔い改めて市井で心静かに生きよ」
 大声で喚きながら、楊尚宮は内官たちに連れられていった。
 この時、楊尚宮が生命を失わずに済んだのは、ひとえに王妃の嘆願があったからだとは、幸か不幸か楊尚宮が知ることはなかった。
 そこまで王の怒りは深かったのだ。最初は楊尚宮を処刑するとまで宣言したのを言葉を尽くして諫めたのは王妃その人であった。
 楊尚宮の喚き声が聞こえなくなり、王妃は何事もなかったかのように、居室で書見を再開した―。

 中宮殿の筆頭たる楊尚宮が突如として解雇された。理由は公表されず、その噂は一時、後宮を賑わせたが、すぐに忘れられた。去る者は日々に疎しという。それでなくとも、後宮では日々、様々な出来事が起こるのだ。人は目新しい出来事に注目し心奪われる。そして、その出来事もひとしきり噂になった後は忘れ去られ、人はまた次の話の種に飛びつくのだ。
 そんな中で、また新たな噂が後宮を駆け巡った。
―張淑媛が昭儀に昇進するそうな。
 噂は後宮どころか、表の朝廷にもひろまり、人は集まれば張淑媛の話題で持ちきりになった。
 まだ正式な王命は出ていないが、王命伝達、任命の儀式は張淑媛の健康状態を見て催されるとも伝えられた。
 中宮殿の階段から転落した後、オクチョンの体調ははかばかしくなかった。幸いにもお腹の御子は順調に育っているが、オクチョン自身が受けた精神的打撃が大きかったのだ。
 粛宗が想像したとおり、オクチョンは楊尚宮の仕打ちを公言することはなかった。あの時、確かに楊尚宮に突き飛ばされた自覚はあった。階の最上階で自分はあのいけ好かない尚宮に突き飛ばされたのだ。
 そして、やはり粛宗と同じ思考を辿った。普通に考えられるのは王妃が楊尚宮に命じてやらせたというところだ。しかし、あの王妃に限って、罪なき腹の子を闇に葬るなどという無慈悲な真似はするはずがない。だとすれば、あの尚宮が勝手にしでかしたことだ。
 今回の騒動について、王妃は無関係だとオクチョンは断言できた。
 にも拘わらず、オクチョンの心には消えないしこりが残った。所詮、王妃と自分は立場が違う。この場合の差というのは単に身分の高低というだけではない。正室と側室という相対する立場にあるということだ。
 正妻と側妾が犬猿の仲であり、互いに相容れないというのは何も物語や芝居の中だけではない。現実に掃いて捨てるほどもある話なのだ。現に、実母も正妻に直るまでは父の正妻にいつも嫌がらせを受けたり、鞭打たれたりしていたではないか。
 王妃と仲良くしたいなんて、考えてみれば自分はどれだけ甘く子どもじみた夢を抱いていたのだろう。王妃はスンの正妻だ。たとえ天地が分かたれようと、側妾にすぎない自分と王妃の立つ位置が同じになりはしない。
 オクチョンは毎日、鬱々と床の中で想いに耽った。そんな時、王妃がオクチョンの殿舎を見舞いに訪れた。
 王妃は新しい尚宮を連れていた。見慣れぬ顔だが、前任の楊尚宮が既に宮外に追放されたのはオクチョンも知っている。
 正直、今の心境は複雑すぎて王妃に会うのは気が進まなかった。とはいえ、王妃直々に見舞いに来たというのに、逢わずに追い返せるはずもない。
 王妃の姿を認め、オクチョンは床の上に身を起こそうとした。
「そのままで良い。私に気遣いは無用ゆえ、楽にしておれ」
 王妃が言うので、オクチョンは言葉に甘えて身体を横に戻した。
 慌てたため、掛け布団の上端がほんのわずかにめくれている。王妃はそれを素早く直し、掛け布団を手際よく整えた。
「桜が散ったとはいえ、まだこの時期は冷える。大切な身体だ、冷やさぬようにな」
 優しく言われ、オクチョンは余計に心が頑なになるのを止められなかった。
「中殿さまは、あの日、本当にお具合が悪かったのですか?」
 単刀直入に問うた。王妃もオクチョンが何のことを言っているのかは理解したようである。
「そなたには申し訳ないが、あのときは真に気分が悪く伏せっていた。自慢できるようなことではないが、私は身体が丈夫ではない」
 そんなことは言われなくても判っていた。王妃は嘘を口にするようなひとではない。
「そなたには済まぬことをした。私が伏せっていたばかりに起きた出来事だ」
 責める言葉を口にしたオクチョンに対して、王妃は怒るどころか謝罪してくる。
「さりながら、そなたにも御子にも障りがなくて良かった。具合はどうだ?」
「物が喉を通りません」
 何故、馬鹿正直に応えるのだろう。自分でも訝しく思った。
「大方、悪阻というものであろうな」
 王妃が微笑んだ。
「私は経験がないゆえ、判らぬが。実家の母が年の離れた妹を産む時、気分が悪く食事も満足に取れぬようになったのを憶えている。たいそう苦しげで、半病人の体で寝て過ごしていた」
 そこで王妃は背後に控える尚宮をつと振り返った。
「あれを」
 そのひと言で、尚宮が王妃に平たい箱を恭しく差し出した。箱は丁度今の季節に咲く桜のような薄紅だ。王妃はほっそりとした手で蓋を開いた。
「そなたの好きな甘いものを持ってきた」
 王妃は箱から花を象った饅頭を取り出し、オクチョンに差し出した。それは桜花を象った練り菓子だ。
「伏せっていては、今年は桜見物ではなかったのではないか」
 気遣う王妃に、オクチョンは頷いた。
「中宮殿の庭にはまだ遅咲きの桜がわずかだが、残っている。後でひと枝きって届けさせよう」
 ほれ、と、王妃が饅頭をオクチョンの口元に近づけた。
「淑媛、食べとうなくても、お腹の子のために食べてくれ」
 本来なら、ここも毒入りかと用心する場面だが、この人がそんな幼稚な小細工をするはずもなかった。
 オクチョンは王妃が手にした饅頭をひと口かじった。それはとても甘くて、美味しかった。
「オクチョン。そなたと私は立場も過ごした環境も違う。そなたが私を疎ましいものだと思ったとしても、それは仕方ないことかもしれぬ。だがな」
 王妃はオクチョンに真摯な眼を向けた。
「生まれてくる子に罪はない。私はもしや殿下の御子を授かれぬ運命やもしれぬゆえ、私の代わりに御子を産んでくれるそなたに感謝しておるし、御子の誕生を本当に愉しみにしているのだ。そなたには迷惑な話かもしれぬが、御子が生まれたら、我が子と思うて可愛がりたいとも思っている。今年、桜は見られなかったが、来年の春は桜を見ようではないか、そなたと私と、生まれてくる御子と三人で」
 饅頭の甘さが心に染みた。
 オクチョンは片手で顔を覆った。
「何故、中殿さまはそんなにお優しいのですか―」
 オクチョンの問いに、この稀有な王妃は笑った。