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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「当人のオクチョンは当然、気づいておろうな」
 申尚宮も頷いた。
「階段から転げ落ちるほどです、相当強い力で押したはず。なれば、当然ながら淑媛さまもお気づきでありましょう」
「だが、あれの性格からして、口にすることはあるまいな」
「御意に存じます。仮にも中殿さまにお仕えする筆頭尚宮がなしたことです。事が明るみに出れば、困った立場に立たれるのは中殿さまになりますゆえ」
「よく知らせてくれた。楊尚宮の処分については朕の独断というわけにはゆかぬ。楊尚宮の主人は中殿ゆえ、中殿と相談することになると思うが、異存はあるまいな」
「はい」
 申尚宮が神妙な顔で頷き、退出した後も粛宗から難しい表情は消えなかった。
 国王の寵姫が正妻たる王妃に仕える尚宮に突き飛ばされた。しかも、寵姫は懐妊中だ。
 図式だけから導き出される結論からいえば、今回の騒動は楊尚宮の単独行動ではないと考える者は多いはずだ。端的にいえば、王妃の命令で楊尚宮が動いたと皆、推察するだろう。
 だが、と、粛宗は考える。あの心優しい王妃が懐妊中の側室を流産させるなど到底考えられない。
 オクチョンの懐妊が判ったのは半月ほど前だ。懐妊を知ったその日は、オクチョンではなく王妃を訪ねた。やはり、側室が先に懐妊したと知らされ、王妃が少なからず衝撃を受けているのではないかと不憫に思ったからだ。
 だが、予想は随分と違っていた。王妃はオクチョンの懐妊を我が事のように歓んでいた。
―殿下。気が早いかもしれませんが、私、もう産着を縫い始めているのです。男の子か女の子が判らないので、色は白にしました。
 と、まるで自分自身が身籠もったかのように嬉しげに報告してくるのに、粛宗は胸が熱くなった。
―そなた自身の子のために産着を縫う日が来ると良いな。
 言ってやると、王妃は淡く微笑んだ。
―私が身籠もりにくい体質というのは、既に知っていることです。母となる夢は、とうに諦めました。ゆえに、張淑媛が代わりに殿下の御子を身籠もってくれることがとても嬉しいのです。
―淑媛が産んだ子は、表向きは中殿たるそなたを嫡母として育つことになる。そなたが生まれるのをそのように愉しみにしてくれていれば、淑媛も心安らかに出産を迎えられるだろう。
 そこで、彼は現在、胸の内にある想いを王妃に伝えたのだ。
―淑媛を昭儀(ソイ)に昇進させようと考えているのだが、中殿はどのように思う?
 流石に良い顔はしないと想像していたのだが、ここでも王妃は粛宗の予想を大きく裏切った。
―よろしいではありませんか。仮にも殿下の初めての御子を産み奉るのです。殿下の第一子の生母が今のまま淑媛では御子の将来にも障りましょう。淑媛の位階を引き上げることについて、私に異論はまったくございません。
 どころか、王妃は更に思慮深い彼女らしいことを進言した。
―出過ぎた物言いかもしれませんが、今後、淑媛の産む御子が男子であった場合、昭儀でもまだ身分が釣り合いません。私が御子を産めぬ以上、淑媛の産む御子が次の王位に昇る可能性があります。
―それでは。
 粛宗の物問いたげな視線に、王妃は白皙の美貌を花のようにほろこばせた。
―私にご遠慮は無用です。殿下、もし、王子がお生まれになれば、淑媛を嬪(ヒン)にしておやりなさいませ。
 嬪とは正一品に相当し、側室としては最上位であり、正室たる中殿に準ずる高い地位だ。王妃はオクチョンが王子を産んだ場合、いずれは嬪に進めさせたいという粛宗の考えを最初からちゃんと見抜いていた。
 今更ながらに王妃の聡明さに、粛宗は驚嘆した。
 その夜、粛宗は中宮殿で過ごしたものの、王妃と身体を重ねることはなく、二人は手を繋いで共に眠っただけだった。
 王妃は身体が弱く、月のものも間遠だ。専属の御医は
―真に畏れながら、中殿さまには御子を身籠もられる可能性は限りなく低く―。
 暗に懐妊はできない身体だと告げられている。その事実を知るのは粛宗と王妃、更に王妃の両親の他は中宮殿に仕えるごく少数の者たちのみだ。
 それでも、あらゆる手は尽くしてきた。針治療が良いと聞けば、腕の良い民間の鍼医を呼び寄せ、後宮で治療させた。煎じ薬、果ては寺詣でと考えつくありとあらゆる努力をしても、王妃は身籠もらなかった。
 御医によれば、子宮の発達が十分ではなく未成熟というのが直接の原因らしい。
 だが、粛宗は王妃を大切にしていた。オクチョンに対するような熱く烈しい愛情ではないが、穏やかな親愛の情をこの若い妻にも抱いている。
 子が授からぬという女には残酷すぎる宿命を告げられても、嘆くでもなく、健気に受け止めている。王妃が入内する前から粛宗が寵愛するオクチョンに対しても、あからさまな妬心を見せることもない。
 どころか、オクチョンがやがて産むであろう御子の誕生を本当に心待ちにしているようでさえある。
 思えば、自分は女運には恵まれていた。最初の妻であった仁敬王妃は妻というよりは姉のような存在であったものの、まだ十代で出逢ったオクチョンは生涯の想い人と思うほど彼は深い情をもっている。
 そして最初の妻亡き後、娶った今の王妃は心優しく聡明だ。正室、側室ともに心の美しい女たちばかりだから、後宮にも諍いはなく平穏だ。
 子宝には今一つ縁遠いのが辛いところだが、これもオクチョンが懐妊したことで、愁いが一つ減った。今は秋に生まれてくる子の誕生が愉しみでならない。
 そんな王妃がオクチョンを尚宮に命じて流産させようとするなぞ、粛宗にはおよそ考えられないことだった。
 だとすれば、楊尚宮一人の先走りか。それにしても、愚かな女だ。気取られぬようにやったつもりだろうが、オクチョンの側にいた申尚宮はちゃんと楊尚宮の悪辣なふるまいを見ていた。
 もし事が露見した暁には、疑いの矛先は真っ先に王妃に行くと考えられなかったのか。
 懐妊した側室を妬んで正室が腹の子を狙うなぞ、古今、後宮では笑えるほど起こった出来事ではないか。
 王妃は、とんだ不忠者を中宮殿に抱えていたことになる。
 さりとて粛宗はこれほどの大事を引き起こした楊尚宮を捨て置くつもりはなかった。まかり間違えば、彼の大切な想い人と我が子は生命を落とすところだったのだ。

 翌日、中宮殿から楊尚宮の姿が消えた。屈強な内官たちに引き立てられていく最中、楊尚宮は王妃に必死で助けを乞うた。
「中殿さま、中殿さま、どうかお助けを。私にはすべて身に憶えのないことでございます」
 だが、いつもは菩薩のような慈悲を持つこの若い王妃がこのときだけは冷たい声音で言い放った。
「恨むなら自分自身を恨むが良い。楊尚宮、そなたは生まれようとする幼き生命を闇に葬ろうとした。私は、いかにしても許すことはできぬ」
「何故ですか、中殿さまのおんためを思ってのことにございますよ? あの女狐が後宮でのさばっている限り、中殿さまの立場は安泰とは申せません。この上、元子さまでも産もうものなら、どれほど居丈高になることやら。ご利発な中殿さまがそのことをご存じないはずはありませんのに」