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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 オクチョンは大粒の涙を流し、申尚宮の蒼黒く腫れ上がった頬を撫でた。申尚宮の身柄は自室に運ばれ、すぐに医官が呼ばれた。
「生きているの? 大丈夫なのか!」
 オクチョンの問いかけに、医官は頷いた。
「あちこちに打撲を負っていますが、直接生命に拘わるような怪我はありません。ご安心下さい、尚宮さま」
「良かった」
 オクチョンはまた涙を流した。
 それでも、申尚宮が回復するには、ゆうにひと月を要した。その間、オクチョンは暇を見ては申尚宮を見舞い、手ずから薬湯を匙で飲ませたり、傷の手当―すりつぶした生薬を患部に塗り包帯を巻く―を行った。
 全身の打撲によって発熱したときは、眠らず付き添い、申尚宮の身体中の汗を拭いたり、額に乗せた濡れ手拭いを替えたりとこまめに世話をした。ある時、申尚宮がうつらうつらとした微睡みから目覚めると、オクチョンが側にいた。
 オクチョンも看病疲れで居眠りをしていたのだ。ハッと目覚めた時、申尚宮が布団の中からじいっと見上げているのと眼があった。
「済まぬ。少しばかり眠っていたようだ」
 オクチョンの言葉に、申尚宮が片頬を歪めた―ような気がした。元々表情が乏しい人だし、何しろ今はまだ顔が痛々しく腫れている。それでも、オクチョンには判った。
 申尚宮はかすかに微笑んでいた。
「尚宮さま。この度は私の浅慮で、尚宮さまにとんだご迷惑をおかけしてしまいました」
 オクチョンは真顔で首を振った。
「何を言うの。あなたは私のために生命賭けで抗議しようとしてくれた。迷惑だなんて考えたこともないわ」
「私は尚宮さまにお仕えする者として、当然のことをなしたまでですゆえ」
 こんなときでも、申尚宮は生真面目な態度を崩さない。
「これより後も、私は尚宮さまを侮辱しようとする者はたとえどのような高貴なお方であろうが許しませぬ」
 と、またしても王妃付きの尚宮が聞けば激怒するようなことを平気で言う。今度は鞭打ちだけでなく、本当に生命を落としかねない。
 オクチョンは笑顔になった。
「申尚宮、あなたの気持ちはとても嬉しい。あなたは私の母くらいの歳だから。あなたには迷惑かもしれないけれど、あなたを見ていると実家の母を思い出すの。知らない中に、あなたを頼りにしていると思う」
 でもね、と、オクチョンは身を乗り出した。
「自分の生命を粗末にしないで。たとえ、どれほど理不尽な仕打ちを受けようと、この国は身分の違いは絶対的なものよ。今回のことも、最悪、あなたは生命を失う羽目になっていたかもしれない。私はまだ若くて後宮のこことは何も知らないでしょう。だから、あなたのような熟練(ベテランの)した尚宮が側にいてくれたら心強いわ。だから、お願いよ、二度と無茶をしないで。私のためを思うなら、腹が立っても堪えてちょうだい」
「尚宮さま―」
 オクチョンの差し伸べた手を申尚宮が震える手で握りしめた。
「畏れながら、私にも実家に置いて宮仕えに上がった一人娘がおりました」
 この後、申尚宮は初めて自らの身の上を訥々と語った。良人と若くして死別した後、やむなく娘を自分の両親、祖父母に預けて宮仕えに出たこと。その一人娘は縁があって十八でさる両班家に嫁いだものの、姑にいびられ通しで、最初の子を流産した後、産後の肥立ち良からず儚くなったこと。
「残してきた娘に淋しい想いをさせているとは思いつつも、奉公に上がって頂いた俸禄は殆ど手許に残さず実家に送りました。ただ、娘に幸せになって欲しかったからです」
 その娘が嫁ぎ先で義母に虐められ続け、亡くなった。申尚宮が泣きながら訴えた。
「娘は生きていれば尚宮さまと同じ歳でした。中殿さまやお付きの尚宮から不当な扱いを受ける張尚宮さまが私には娘の姿と重なって見えてならなかったのです」
 嫁ぎ先で、良人は両親の言うなりで頼りにならず、娘は孤立していた。せめて自分が側にいればと何度後悔したかもしれない。だから、せめて今、お仕えする張尚宮のためにはできることをしたい。申尚宮はそう願うようになったという。
「そうだったの。申尚宮も辛い想いをしてきたのね。だったら、尚更、あなたにはずっと元気でいて貰わなければ。後宮での私のお母さん代わりとして、いつまでも側にいてね」
 申尚宮に真摯な表情で頼んだオクチョンの手を両手で押し頂き、申尚宮は号泣した。
 その日を境に、オクチョンの後宮での頼もしい味方がまた一人増えたのは言うまでもない。   

 申尚宮の傷も漸く癒えた頃、予期せぬ来訪者がオクチョンを訪ねた。ミニョンから是非とも逢って欲しいと紹介されたその人物は、派手な巫女装束を纏っていた。対面はオクチョンの居室で行われ、その女の狐を彷彿とさせる細長い顔を見た刹那、嫌な予感がして、オクチョンは息を呑んだ。  
「私は下町で占いを生業(なりわい)としておりますソン・ウルメと申します」
 仰々しいほどへりくだった物言いがかえって空々しく、普段はあまり人を区別しないオクチョンなのに、何故かこのウルメという占い師に対しては得体の知れない危機感を抱いた。
「ミニョン、この者を呼んだ理由(わけ)は?」
 暗に自分は呼んだ憶えはないと言おうとしたのだけれど、ミニョンは真剣な面持ちで応えた。
「この者の能力(ちから)は、巷でもそれはもう評判だということにて」
 オクチョンは元々現実志向で、あまり迷信だとかを信じない方である。信仰に関しても、神仏を敬いはするものの、縋れば必ず救われるなどと考えてはいない。そんな彼女であってみれば、巷で評判かは知れないが怪しげな占い師などを信じる気は毛頭なかった。
 オクチョンの気乗りしない様子を見て取ったらしく、ミニョンがついと膝をいざり進めた。
「この者はいまだ産まれざる者の性別をも見事に言い当てることができるそうですよ、尚宮さま」
「それは一体、どういう―」
 オクチョンが首を傾げたその側で、申尚宮がハッと息を呑む気配が聞こえた。
 その場には他に誰がいるはずもないのに、ミニョンが辺りを窺うように見回し、声を潜める。
「つまりは、母親の腹の中にいる胎児の性別も判るということにございます」
「―」
 オクチョンは、なおも判らないというように眼をまたたかせる。一方、申尚宮の小さな顔は、傍目にも判るほど凍り付いていた。
「しかも、このウルメは、どのような願い事も卓越した祈りの力によって成就させることができると専らの噂です」
 ミニョンは袖から薄い紙を取り出し、ウルメに渡した。しばらくその紙を見つめていたとかと思うと、ウルメは小さく頷き、端座した姿勢はそのままで両手を祈りの形のように胸の前で重ね合わせた。
 不気味な静けさがひたひたと室を満たしてゆく中、ウルメは眼を瞑り、何かの想いに耽っているかのようで、身じろぎ一つしない。
 突如として、ウルメがカッと両眼を見開いた。愕くべきことに、彼女の眼(まなこ)は両方とも白目になっていた。あまりの禍々しい光景に、オクチョンも申尚宮も蒼褪めた。
 ミニョンだけは平然とウルメを見つめる。むしろ、ミニョンは嬉々としているようだ。
「見える。私には見える、王妃のお腹の子は―」
 そこで、ウルメがぶるぶると瘧にかかったかのように震え始めた。
「いかがした? 何が見える?」