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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 あまりといえばあまりの科白に、流石にオクチョンも身を強ばらせた。茫然と見上げているオクチョンを、王妃はまるで汚物を見るかのような忌まわしげな眼で見ている。 
 ああ、このお方にとって、私はどこまでも目障りな存在でしかないのね。
 今、王妃は殿舎の階の上から庭に立つオクチョンを睥睨している。恐らく王妃にとっては、自分とオクチョンの立つ場所というのはこの高さ以上の落差があるということなのだろう。
―私も王妃さまも同じ人間なのに、どうして? 
 怒りよりは哀しみの方が勝った。王妃が何やらお付きの尚宮に囁いている。尚宮は更に若い女官に何事か命じていた。
 その理由はほどなく知れた。いきなり高見から水が降ってきて、オクチョンは愕きのあまり、その場に倒れそうになった。
 この暑さゆえ、頭から水を被れば爽快なはずだが、現実はほど遠かった。というのも、頭上から降ってきたのはただの水ではなく、汚水であったからだ。ご丁寧に厠からくみ上げてきた糞尿が混ざっているらしく、辺りは立ちどころに鼻につく異臭が漂った。
「おお、臭い。賤しき者は流石に纏いつく匂いまで独特と見える」
 王妃の傍らに立つ尚宮がこれ見よがしに言い放ち、取り巻きの若い女官たちがクスクスと忍び笑いを洩らした。
「少し頭を冷やしてやろうと思うてな。眼も曇っているようゆえ、顔の洗い方が足りぬと見える」
 王妃が美しい面に冷笑を浮かべていた。これ以上ないほど冷酷な声、全身から刃物のような殺気さえ漂わせている。
 一体、我が身が何をしたのか。どれほどの罪を犯したからといって、ここまで王妃に憎まれるのか。
 汚水まみれのオクチョンは最早、声もない。既にオクチョンの側に戻っていた申尚宮もミニョンも同様に糞尿を頭から被った状態である。
 オクチョンはあることに気づいた。申尚宮が小刻みに震えている。握りしめた両の拳がかすかに震えていた。
「あまりといえばあまりの仕打ちではございませんか、我が主(あるじ)尚宮さまは仮にも国王さまの承恩をお受けになった尊い御身におわします。このことを国王殿下がお知りになったれば、一体、何となさるおつもりか」
 申尚宮は特に名指ししたわけではないが、誰に対しての言葉かはその場にいた皆が理解した。
 案の定、王妃は芙蓉のようなたおやかな面を蒼褪めさせ、わなわなと震えている。
「そなた、今何と言いやった? たかがお手つき女官に仕える尚宮風情が国母たる私に物申すとは許し難い」
 これはまずい、と、咄嗟にオクチョンは一歩前に進み出た。全身汚水まみれなのも厭わず、その場に土下座して平伏する。
「中殿さま。どうかお許し下さいませ。私の日頃のしつけがゆき届かず、中殿さまに申し開きのしようがないご無礼を働いてしまいました。仕える者の不始末は主たる私の不始末にございます」
 そのときだった。王妃が盛り上がった腹部に手を当てて呻いた。
「っ」
 花が散るようにとは、まさにこのことを言うのかもしれない。可憐で華奢な王妃の身体がその場にくずおれた。
「い、痛い」
 王妃が腹を押さえたまま悲痛な叫びを上げる。
「中殿さま、中殿さま!」
 お付きの尚宮が狼狽え、王妃の身体を抱き起こす。
「そなたらのせいで、王妃さまが大変なことになられたぞ」
 尚宮の睨(ね)めつけるような憎悪の視線が忘れられなかった。
 中宮殿は上から下への大騒動になり、オクチョン主従はそのままひっそりと殿舎に戻った。
 とりあえず湯を使い、それぞれが身体を清め衣服を改める。やっと人心地つき、オクチョンは居室でまた新たな溜息をはき出した。
 眼の前にはミニョンが運んできた小卓が置いてある。卓上には、オクチョンの大好物の揚げ菓子と柑橘茶が載っている。揚げ菓子は小麦粉を練って縄をねじった形にして、油で揚げ砂糖を仕上げにまぶしたものだ。
 お菓子作りの得意なミニョンが作ったのである。
「尚宮さま、少し召し上がってみてはいかがですか? ご気分が良くなるかもしれませんよ?」
 ミニョンの言葉に、オクチョンは力なく首を振った。
「申尚宮がどんな眼に遭っているか判らないというのに、のんびりとお菓子を食べてなんていられないわ。ミニョン、私の書いた手紙は国王さまに届けてくれた?」
 殿舎に戻ってきて、それぞれが汚れを落とした頃、中宮殿から遣いが来て申尚宮は引き立てられていった。その罪状は?畏れ多くも中殿さまを侮辱し申し上げた?という内容だ。
 確かに、先刻の申尚宮の行状は常軌を逸していた。側室でさえない特別尚宮に仕える一尚宮があろうことか王妃に直接話しかけるどころか、オクチョンを庇い王妃の行いを糾弾したのだ、ただで済むはずもなかった。
 けれど。申尚宮は他ならぬ自分のために、身を挺して王妃に抗議したのだ。そんな忠義の部下をこのまま見殺しになどできるはずもない。
 申尚宮が連行されてから、オクチョンはすぐにスン―粛宗に手紙を書いた。むろん、申尚宮の身柄を救うための嘆願状だ。今回の王妃に対する非礼はすべて自分が至らぬせいであり、王妃を激怒させたのも自分の訪問ゆえで、申尚宮には何の落ち度もないことを繰り返し述べ、寛大な処置を願った。
 だが、オクチョンの望みは届かなかった。もちろん、粛宗はオクチョンの手紙を読んだ後、ただちに中宮殿に内官を向かわせ、申尚宮をオクチョンの許に戻すように命じたのだが、王妃付きの謹厳な尚宮は
―国王殿下といえども、後宮内のことに口だしはご無用に願い申し上げます。
 の一点張りであった。
 後宮内には後宮の規律があり、確かに歴代の王も後宮内の出来事に口だしはできなかった。すべては後宮、内命婦の長である王妃の裁量に任される。そして、今回、申尚宮はその王妃に対して無礼を働いたのだった。
 王が申尚宮を庇ったことは、余計に王妃やその周囲の人間たちの不快感を募らせる結果となった。
―賤しい妖婦がまたしても殿下を操り、後宮内の事件に殿下が口を出された。
 王妃直属の尚宮は、オクチョンを?空恐ろしい女狐?と罵倒した。
 その日、オクチョンの殿舎の灯りはなかなか消えず、夜更けまで煌々と点っていた。夜半過ぎ、申尚宮の身柄が戻ってきたと連絡があった。
 あの一件後、王妃が産気づいたと大騒動になった。まだ予定日まではひと月以上もある。今、出産になれば、産まれてくる御子の生命が危ないのは明白である。ただちに医官が呼ばれ手を尽くした結果、何とか陣痛は治まり、早すぎる出産を食い止めることはできた。
 しかし、それもすべては?妖婦、張尚宮と身の程知らずな使用人?が懐妊中の王妃の気を動揺させたからだとされ、申尚宮は中宮殿の正面の台にうつぶせでくくりつけられ、およそ一刻に渡って鞭打たれた。申尚宮を鞭打ったのは、王妃の信頼も厚いあの中年の尚宮であった。
 あの尚宮は王妃がまだ少女の頃、入内してから側付きとなって以来、ずっと若い王妃に仕えてきたという。鞭打たれ続けた申尚宮は自力で歩くことも叶わず、戸板に乗せられて運ばれてきた。
 寝ずに待っていたオクチョンは、チマの裾を蹴立てるように殿舎の入り口に駆けつけた。申尚宮の小さな顔に血の気はなく、死んだように微動だにしない。
「何という惨いことを」