炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻
大王大妃が語っていたように、王位を巡っての権力争いに巻き込まれる危険があった。オクチョンは我が子をそんな醜い政争に巻き込みたくない。何より、将来、王妃が産むであろう御子とオクチョンの産む子は血を分けた兄弟となる。兄と弟同士であい争うような事態だけは避けたい。
その点、娘であれば、王位争いにも無縁だし、権力闘争に巻き込まれる危険もない。大切に育て上げ、いずれ王の娘にふさわしき両班家に降嫁することになる。できれば、オクチョンは娘を得て、我が子には自分とは違う平穏な女の幸せを得て欲しかった。
だが、今度こそ王子をと望んでいるスンに、到底本音は話せない。
オクチョンはまだ膨らみの目立たない平坦なお腹をそっと撫でた。
―吾子、私の赤ちゃん。男の子でも女の子でも良いから、元気に生まれてくるのよ。
オクチョンは前王妃の難産を間近で見ている。前王妃は予定日よりひと月も前に産気づき、六日に渡る難産に苦しみ続けた末、生まれた王女は誕生後まもなく亡くなり、王妃自身も後を追うように亡くなった。
オクチョンの母は健在である。母の話から、兄と自分を産む際、本当に軽いお産であったとは聞いていた。
―ヒジェのときもオクチョンのときも、産気づいてものの半刻もしない中に生まれたのよ。
つまり安産の家系なのだろう。とはいえ、母と娘だからといって、お産の経過まで同じとは限らず、殊に三十近い高齢での初産には正直不安も大きかった。
オクチョンは腹部を撫でながら考える。とにかく今は、無駄に悩んでいても仕方ない。御医は安産のためには適度な運動も必要だと話していたから、明日からは庭の散策は必ずしよう。
あまり長く悩みすぎないのがオクチョンの良いところでもある。もっとも、スンには
―そなたはあまりに楽観的すぎる。
と、呆れたように言われるのだが。
考え事をしている中に、いつしか中宮殿の前まで来ていた。まずは申尚宮が殿舎の扉前に控えている数人の女官の一人に来訪の目的を伝える。その女官が頷き、扉を開けて中に入っていく。その姿をオクチョンはぼんやりと見送った。
ほどなくまた扉が開き、庭へと続く階を降りてきたのは、あの楊尚宮であった。
態度だけは慇懃に、オクチョンに腰を折る。
「私めがご用向きを承りましてございます」
先刻の若い女官から用向きは聞いているはずなのに、訊かずもがなのことを言う。
オクチョンは嫌な顔をせず、辛抱強く繰り返した。
「中殿さまから花見の宴の際、こちらへのご招待を頂いた。ゆえに、今日はまかり越したのだ」
楊尚宮が神妙な面持ちで告げた。
「生憎ながら、中殿さまは頭(つむり)が痛いと仰せで、朝から御寝あそばしておいでです」
オクチョンは頷いた。
「それは良くないな。お顔だけでも拝見することは叶わぬか?」
「それでは、こちらへ」
楊尚宮に促され、オクチョンは短い階段を上った。楊尚宮が先導し、オクチョンの後を申尚宮が続く。階を昇りきった楊尚宮が振り返ろうとしたその時、オクチョンの身体がユラリと傾いだ。
「淑媛さまっ」
申尚宮の悲鳴を聞きながら、オクチョンは自分の身体がゆっくりと落下してゆくのをまるで他人事(ひとごと)のように感じていた。
刹那、オクチョンは咄嗟に腹の子を庇うように腕を腹部に回した。もし身体を強く地面に打ち付けたとしても、こうしていれば少しなりともお腹の子を守れるかも。
ひとえに母心ゆえだ。
「淑媛さま(マーマ)っ、淑媛さま」
申尚宮の涙混じりの声が遠くなっていった。オクチョンは腹部に鈍い痛みを感じ、呻いた。
―赤ちゃん、折角授かった私の赤ちゃんが死んでしまう。
こんなときでさえ、脳裏に浮かんだのはスンの落胆した表情であった。
こんなことになって、スンにどうやって謝れば良いの? あんなに子どもの誕生を歓んでくれていたのに。私ったら、また失敗してしまった、馬鹿ね。
いつもスンから
―オクチョンのお人好し、おっちょこちょい。
と、からかい混じりに言われている。でも、今回は単なる失敗として片付けられない重大なことだ。お腹の子はオクチョン一人のものではなく、この国の王室にとっても大切な子なのだから。
一番哀しいのは、自分の不注意で我が子が死んでしまうことだ。何という愚かな母親だろう、やっと授かった可愛い我が子をみすみす危険な目に遭わせるなんて。
オクチョンはひたすら我が身を責める一方で、気を失った。
張淑媛倒れるの知らせを受け、粛宗は御前会議中であるにも拘わらず、中座してまでオクチョンの許にやって来た。
「大事ないのか? 腹の子は!」
枕頭で畏まる御医に、粛宗は噛みつかんばかりに訊ねる。
白髪交じりの医官は平伏したまま言った。
「ご心配には及びません。お腹を強く打たなかったのが幸いしたようです、淑媛さま、お腹の御子さま共々、ご無事にございます」
「そうか! 無事か」
粛宗は心の底から安堵したように言い、涙ぐんで、眠るオクチョンに視線を移した。
「本当に腹の子にも大事はないのであろうな」
「はい。不幸中の幸いでした。もし張淑媛さまが腹部を強く打たれていたとしたら、或いは流産ということもあり得たやもしれませぬ」
「流産だと?」
王の声が震えた。
「ですが、淑媛さまはお腹をさほど打たれなかったようにございます。咄嗟にご自身でお腹の御子さまを庇われたか、もしくは単に運が良かったのかは知れませんが」
「万が一にも流産となった時、オクチョンはどうなるのだ?」
御医は控えめに応えた。
「大概は腹の子だけ流れ、母胎に深刻な影響は出ないものです。されど、流産後の肥立ち良からず、たまに母親の方まで弱ることもなきにしもあらずで、絶対に大丈夫とは申し上げられません」
粛宗は御医の労をねぎらい、御医は目覚めたらオクチョンに服用させるようにと煎じ薬を置いていった。粛宗が何の薬かと問えば、
―念のために、流産止めの薬を処方致しました。
と、応えた。
流産。そのひと言が王に与えた打撃は大きかった。自分はもしかしたら、前妻と娘に続いてまたもやオクチョンと腹の子を失っていかたかもしれないのだ。
粛宗が深い息を吐き出したその時、居室の扉が細く開いた。
「殿下、真にご無礼かとは存じますが、少しお話をしてもよろしいでしょうか」
振り向いた先には、オクチョンに仕える申尚宮が静かに膝を突いていた。
「ああ、構わぬ」
粛宗は眠るオクチョンを窺った。呼吸も安定しているようだし、顔色も悪くない。少しであれば、眼を離しても構わないだろうと判断し、別室へと移動した。
その室で彼が聞かされたのは、およそあってはならないことだった。
「何だと、中殿付きの筆頭尚宮がオクチョンを突き飛ばした? それは真なのか」
俄には信じられない話だ。
しかし、この忠義者の申尚宮は偽りを口にするような人間ではない。主君のオクチョンとは似た者同士で、およそ計略を巡らせて他人を陥れることなど縁のない律儀者である。
申尚宮は眼を伏せ、頷いた。
「私、この眼で間違いなく見ておりました。見間違いではありません。淑媛さまが階段を上りきった時、楊尚宮が振り向く体を装って尚宮さまのお身体を押したのです」
粛宗は呟いた。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻 作家名:東 めぐみ